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あえて予蝶(予兆)
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    先月の10月23日(月)の朝8:00過ぎぐらいのことだ。
    23日というは、台風21号が中部、関東をもろに直撃し、
    通過した翌朝のことだ。
    どことなく、なま暖かく、10月末だというのに、
    Tシャツで過ごせるほどの陽気になった。
    そこそこ汗もかいた。
    この日の早朝、私は、とある場所に向かっていた。
    あと30メートルほどで、そこに着くはずだった。
    JRの駅が、私の背の後ろにある交差点の信号を渡ると、
    背後で、救急車がかなりの音量で近づいてくるのが分かった。
    振り返らなかったが、
    おそらく先ほどの交差点を越えるところだったのだろう…。
    通勤の人々が急ぎ足で、どこか忙しさは感じるものの、
    異質な騒音などない比較的穏やかな空間を、
    救急車の激しい音量が突然に鳴り響いてきた。
    個人的には、そのやかまし過ぎる音量に苛立った。

    そちらには目もくれないで、目的の場所に向かって、歩いていると、
    私の視界の中でチラッと、
    建物の壁の一部で、何かが動いているらしいことに気付いた。

    「なんだろう…?」


    蝶のアップ1

     

    そちらを見ると、アゲハの種類のような蝶だったのだ。

    地面から70−80cmあたりの
    扉の横の壁で、この記事に掲載した写真の蝶が羽をゆっくり羽ばたいて
    いるところだった。

    まず最初に感じたのは、「(ナンデ?)嘘だろう…」という思いだ。
    衣替えも終わって、すっかり秋も深まっているというのに。
    あまりに季節外れな感のする存在なので、

    「どういうことだろう…」と思った。

    ふと頭の中をよぎったのは、海を渡る蝶「アサギマダラ」の事を思い出した。
    アサギマダラは「旅する蝶」として有名でもあり、
    春から夏にかけて南から北へ軽く2000キロ以上を移動し、
    秋になると南下するらしいというようなことで知られている。
    写真の蝶が、
    そのアサギマダラかどうかは、分からないが。
    ふと、その知識がリンクし浮かんだ。

    いずれにせよ、昨夜の雨風の激しい台風をどこで、どう過ごし、
    そして、いまなぜ、ここに姿を現したのか。

    関連づけるなら、台風とともに紛れてやってきて、仲間とはぐれたのか。
    あるいはこの周囲にたまたま蝶の好事家がいて、その家で飼育していて、
    たまたま部屋から逃げ出したものなのか。
    そんなふうに、考えてみたりもした。

    ただ季節外れということで、妙にインパクトがあった。

    「そうだ!」と心で、頷いて、ガラケーのカメラで、2点の写真を撮った。
    こんな話、文章だけで、信じてもらえるかどうか…。論より証拠で。

    デジカメで押さえておこうと思ったのだ。
    後で。動画モードにしておけばよかったと思ったが。取り損ねてしまった。
    というのも、
    通勤者の往来の多い通りで、しかも何やら建物の前で、携帯を構えている姿を
    心よく思ってくれる人は、少ないだろうと思うと、じっくり撮影どころではなかった。

    その後、撮影した画像を見て考えたのは、
    スピリチュアルな事が、私の中で起きている。そのサインなのだろうと当然思った。

    それから、3−4日後のことだ。
    中高層の建物の外階段を歩いていたときのことだ。
    なんと、今度は、4−5cm ほどの、小さなトンボが、
    階段のステップにいたのだ。季節外れ第2弾だ。

    正直、何となく気持ち悪いと思った。

    この時期に、…トンボって。先日、蝶を見たばかりなのに…。

    死んでいるのだろうか。全く動かない。

    普通なら、花びらの上でホバーリングしているトンボは、
    人の気配を敏感に感じて、逃げるだろうに。

    なのに、このトンボは、じっとしている。
    こちらは俯瞰気味に見ているせいもあって、ペチャンコに見えた。

    子どものおもちゃか何かの細工物ではないのかとも思ったが。
    腰を少し屈めて、覗き込んだが。
    そうでもなさそうだ。

    「まあいい…」そう考えて、

    トンボの傍、10cmほどの脇を踏んで刺激をあたるように、
    歩いてみたが。やはり動かない。逃げようとしないのだ。

    「やはり、死んでいるのだろう…」、いや「工作物かな」と、また思った。
    後で写真を撮っておけばよかったと振り返ったが。
    そこまで気が回らなかった。

    どう考えても、この時期にトンボは、少し変だ。季節があまりに場違い過ぎると
    思った。


    これら季節外れの2匹の昆虫のサプライズについて、考えてしまうのが、
    私の習慣だ。
    おそらくスピリチュアルな意味が含んでいるのだろうと、
    ちょっと知らべてみた。

    やはり…。
    エンジェルナンバーと類するような、生き物によるエンジェルサインだった。
    エンジェルナンバーについては、
    少し前のブログ(☆備忘録:予兆への気づき【スカラベ】2017.09.22 Friday)でも、
    記述させていただいた。

    ゾロ目をよくみるということによるその数字が持つ意味を、
    ハイヤー・マインドから贈られてくるサインとして捉え、
    スピの世界で意味を持サインとして受取っているという内容だ。

    買い物のレシートで、合計金額が4ケタのゾロ目だったり、
    自動車のナンバープレートがゾロ目だったり。
    目覚めて、ふと何時だろうと思って見たデジタル時計の表示がソロ目だったりと。
    いろんなタイプがよくある。

    個人的には、それが、かなり頻繁に続くのだ。[8888][4444][111][6666][2222]
    は、実際に、ほぼ毎日のように、見かけることがある。

    踏み込んで言えば、電話番号の数字は個人情報でもあるので、
    差しさわりがあるので言わないが、

    私の携帯の末尾4ケタは、
    あるラッキーナンバーのゾロ目だ。これらはすべて事実。

    それだけでも、毎日、ゾロ目を意識し観ているようなものだ。

    信じていただけるかどうかは、人それぞれでいい。どうでもいい。

    私にとって、真実であれば、それで充分。

    前述の蝶やトンボは、生態として、形状を変えて成虫になる。

    つまり蝶で言えば、卵→幼虫→さなぎ→蝶となる。
    トンボも場所は水中でと、変わるが、卵→ヤゴ→トンボとなる。
    つまり、「変容」を繰り返す。

    スピの世界では、「変容」または「変化」を暗示しているという説明がある。

    私の2−3前のブログには、ほぼ愚痴に近いネガティブな私を取り巻いた状況下について、

    記述させていただいたが、それに一定の決着を表すものとして、
    エンジェルナンバーやエンジェルサインが、頻繁に表れているのだろうと、
    解釈させていただいている。

    しばらく安定的な状態が続くと目算していた状況から、一転、
    まるでどん底のように感じた暗い状況は、確かに一つの側面としては、
    現実世界で、文字通り、そう見える。そう体験する世界なのだが。
    それは、常にいま苦しんでいる世界とはある意味反対の世界を含んでいて、
    再び、何かに変わろうとうする状態でもあるのだ。

    その苦しさにあえいでいるときに、ハイヤー・マインドは、
    エンジェルナンバー、昆虫やそのほかのエンジェルサインを通じて、
    ヒントをくれているようだ。

    「まもなく、それは終わるよ…」と。
     

     

     

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    posted by: fukugakuru358 | 020/その他 | 17:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    ☆1+ -1 = 0でなく緩和であり、新たな1
    0
      前回のブログ(☆備忘録:予兆への気づき【スカラベ】)で、
      やや私自身の心の深い部分で、ネガティブな感情を吐露する記述を書いた。
      それについて、補則する意味で、この記述をしておきたい。


      ネガティブな感情を吐露というのは、
      自身のご近所さんいるイザリのようなある自己チューな高齢者のことと。
      針金のようにやせ細った老婆が、
      なぜ?どんな意地を根拠にそんなに頑張っているのか…!
      どう見ても、年齢的にも、
      この先がないと感じる老婆に対して、
      私が、やや悪意に傾いた感情を心の裡に持つことを、
      否定しないで、良しとして、
      記述したのか。そのあたりを記述したいと思った。
      私は、自己弁護などするつもりはない。


      前述した人物たちへの敵対するような感情を持ったことに対して、
      自分は、それで良いと思っている。そして、はっきり言っておきたい。
      それでも…良いのだと。

      私たちは社会規範やモラル、社会的な多くの制限の中で、
      そうしたものの中に囚われ生きている。
      誰もが、自分の心の裡に、悪意を伴う感情を持ったことに対して、
      大なり小なり自省し苦しむことがある。
      それは、間違いであると私は述べたいのである。
      むしろある種、力学の緩和のために必要だとさえ思っている。

      何が言いたいかというと、良い感情ばかり抱く、抱こうとする人は、
      多様性がその本性である精神の片輪だと言いたい。私たちの生きる世界には、
      何かになろうとする力学が働いている。常に、変化し働いている。
      それは、二極のバランスの中で、AからBに。それにとどまることなく、
      また違った側面のAだったり、Cだったりして、
      その真逆によって、緩和される。
      常に、均衡と、変化による不均衡。それをまた緩和するように、
      均衡が生まれ、また変化する。常がない。留まることがない。
      悪い感情を持っても、それは極めて健全なのだ。
      なぜならそれを補う、良い感情も醸成するからだ。
      良い感情を持てば、それが飽和状態化するとき、形を変えた、
      実に巧妙な形で、悪意ある感情も生まれる。

      ただし、誤解がないように言っておきたい。悪意を実践するかどうかは、
      それは、また次元が異なる。
      ステージが変わって、再び、その中での不均衡と均衡が相互にバランスを求めて、
      変化し、変化する。

      だから、
      神は、私たちがどんな感情を持っても、私たちに干渉しない。裁かない。決して裁かない。
      裁けば、この世界は、一面的になり、多様性を失い。崩壊するからだ。

      つまり、図式化すると、 1+ -1 = 0でなく緩和であり、新たな1なのだ。

      本日のブログは、数学的な概念の1+ -1 = 0 という、
      抽象的世界を前提にした数式の法則を否定するものではない。

      私たちの心の世界の具現的な力学の法則として、述べたつもりだ。


      ”1+ -1 = 0でなく緩和であり、新たな1”とは、
      ポジティブとネガティブな均衡は、そこで緩和されるのみでなく、
      カタチを変えて、何かが1つ興って、変わることを意味している。

      posted by: fukugakuru358 | 002/心について | 17:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      ☆象徴(シンボル)
      0

        ある日。りんかい線の品川シーサイド駅を利用したときのことだ。


        現時点では、新木場からJR大崎駅までをりんかい線とする路線と言えばいいのか。
        各鉄道会社とは、延伸して移動はできるが。短い区間だ。
        しかも、電車の行き来する間隔も平均的に、6−7分と少し長い路線でもある。
        乗り継ぎが順当でない場合、駅構内で、それなりに待つことになる。

         

        その日、駅の壁画を何気なく見ていた時に、まさにこれだなと思った。
        壁画は、片側車線の壁画は、すべて一様で、同じ模様が15メートルぐらいの間隔で、
        施されている。

        品川シーサイド駅構内.jpg 

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

         

        品川シーサイドから大井町駅方面に行く1番線と新木場方面へ行く壁画は、

        Aパターン、Bパターンというような感じで、デザインが異なっている。

        どちらも抽象画だ。

        その1番線の壁画を観ているうちに、

        これこそまさに私たちの世界の象徴だなと思った。

        品川シーサイド駅壁画.jpg

         その写真が、左図だ。

         これを観て、気づく方は、

         それなりに物理的現実が何たるかを、

         ある程度理解している方に

         違いない。
         こじつけと言われれば、

         それまでだが。私はそうは思わない。

         この写真の壁画は、
         物理的現実の成り立ちを、

         文字通り象徴していると、

         私は感じた。私の解釈は、こうだ。

         上部は、

         ハイヤーセルフの領域で、波動域で。
         下部が、波動域を具現化した、

         投影した物理的現実世界という理解だ。
         つまり、上部は、

         私の深い部分の思い

         の波動状態の意識構造と言った感じ。

         

         

        下部は、まるでビル群(都会)を現実化した、反転された世界のように見えないだろか。

        境界は、実際の世界では見えないが、この上下を別つ陰陽のラインでもある。


        この壁画を見れば見るほど、バシャールの世界。アシュタール、あるいは津留晃一さんの
        いうところの象徴のようだなと思って眺めみた。

        チャンスがあったら、一度ご覧いただきたい。

        隣接する前後の駅は、壁画が異なる。

        天王洲アイルは、紫を基調とした世界で、この駅のように、暗示的ではないし。

        お隣の大井駅も、ピンク色が基調のやはり抽象的な別の壁画だ。

        このシーサイド駅だけが、たまたまこうした象徴を表した画のようになっている。

         

        品川シーサイド駅
        http://www.twr.co.jp/route/tabid/116/Default.aspx

        のホームページ中ごろ、


        駅の紹介によれば、

         品川シーサイド駅は、
         再開発エリア「品川シーサイドフォレスト」に直結している大変便利な駅です。
         当駅のホームの駅名デザインは、グリーンを基調としており、
         再開発エリアのテーマ「杜の緑の中の街」と一体性のある意匠となっています。
         近年は、通勤、ビジネスなどでご利用されるお客さまが増えています。

                  (上記:URLのWebページの引用より)

         

        と壁の壁画についての説明があるが、

         

        解釈は、人それぞれで、良い。

         

         

        posted by: fukugakuru358 | 006/願望実現とイメージ | 16:36 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
        ☆記憶について(蒲田駅周辺で思う)
        0

           何かの折に、蒲田駅周辺がすっかり変わってしまったことを知った。
          それから、ずっと、蒲田周辺の様子を確認したいと思った。

           

          JR蒲田駅 というのも、

           私のこれまでの人生の何分の1かは、

           かなり大きな比重で、

           蒲田周辺で過ごした一時期

           というものがあったからだ。
           一つには、

           高校生だった頃の10代後半から、

           さらに20代前半まで間。

           

           

          そして、

          フリーで映像制作を携わっていた時期だ。トータルで、15年前後ぐらいの関わりがある。

          大きく変わったのは、ここ数年のようだ。

           

          特に、著しく変化を見せているのは、京浜蒲田駅周辺だった。
          正直、京浜蒲田は、嫌いな駅の一つだ。どことなく冴えない街だからだ。

          そして、昨日、どうしても気になっていたので、

          京浜蒲田駅

           

           京浜蒲田駅へ行ってみた。

           あまりの変貌ぶりに、困惑した。
           まるで自分が異邦人になったような錯覚に

           陥った。
           

           駅は、すっかりきれいになったものの、

           相変わらず、情緒もなく。
           どこか冴えない。

           デザインされた街になったが、
           やっつけ仕事感がぬぐえない。
           自分にはそのように感じた。

           

           

          その意味で、

          やはり好きになれない街であることに変わりはなかった。

          異邦人のような感覚だったと述べたが。
          と、同時に、ある事件を思い出していた。

          差し障りがあるので、詳細は言えない。あるポイントだけお伝えする。
          私が一時期、蒲田周辺で働いていた頃、同僚が、
          ある日、記憶喪失になったのだ。

          私は、彼のひどく怯えた姿を観て、衝撃を受けた。
          口は紫色になり、小刻みに震えていたのだ。
          その頃の私は、ドストエフスキーの一連の作品を、熟読していたころで。
          作品の影響を強く受けていたこともあり、
          彼の様子を食い入るように観察したものだ。

          彼は、とある駅で、手帳を観て、そこに書かれてあった
          電話番号をかけ、他の同僚が、その駅まで迎えに行き、
          そして職場に来ることができた。

          彼を迎えた職場は、わずかな情報だけを聞いて大慌てで、みなが狼狽えた。

          彼は事務所に座らされていた。
          彼の顔は、青白く、不安を漂わせ、彼の良く見慣れたはずの事務所で、
          天上のあたりをしきりに見回していた。

          彼を迎えに行った同僚の情報だと思うが。
          「自分が誰か分からない」という様子らしいと聞いた。

          結局、彼は、小1時間ほど事務所に留め置かれ、
          同僚たちの善意の対応で京浜蒲田駅近くの病院に、
          数週間入院した。

          それを最後に、二度と彼の姿を見ることはなかった。
          意識が一定程度安定したころ、家族に引き取られ。
          職場を止めて行ったからだ。
          その後どうなったかは、皆が一様に口をつぐんでいた。
          タブー視して、
          「何もなかったかのように」
          「彼という存在すらなかったかのように」
          事務所のスタッフはそのようにふるまっていた。

          私も、何も聞いてはいけないのだなと直感した。
          それでも原因は、薄々漏れてきた。
          金に絡む問題で、心身が持ちこたえられず、
          記憶喪失になったらしいということを他の同僚から、聞くことになった。

          年下だったが、彼とはそこそこに親しかったので、
          彼の一件は、あまりに衝撃的だった。

          その彼が、病院にいくまでの時間、事務所で見せたあたりを不安そうに、
          天井を仰ぐ姿が、

          いま京浜蒲田駅に降り立ったときの私の気分と、

          どこか重なった。

          私は、小さなアーケドの商店街(あすとという商店街)をきょろきょろと見まわしていたのだ。

          何か飛んでもない空間に、投げ込まれた感覚を味わっていた。

          なぜなら、私の記憶とのギャップがあまりにも隔たりがあったからだ。
          かつて馴染んでいたお店などが、一件もなく。
          すべてが総入れ替えされたようだった。
          心の中で、
          「え、これ嘘だろう…?」

          まるで人の記憶を破壊する暴力だなと感じた。

          その後、JR蒲田まで行き、さらに毎日飲み歩いた店の周辺に行ってみた。
          もう、何の面影もない。
          かつて通い詰めた「居酒屋」はなく、とんかつ定食屋に変わっていた。
          大衆酒場に、どう見ても似つかわしくない若い夫婦ものの姿はそこにない。
          私が、この店に行かなかくなったは、酒の飲みすぎを自重したからだ。
          急性の膵炎にもなったことがあり、
          このまま飲み続けてはいけないと、健康上の理由から、
          10年近くほぼ全面禁酒した。その間に、すべてが変わっていたのだ。

          私が、蒲田駅が一変してしまったと、気づいたのは、あるとき、
          この店がすでに、なくなってしまったらしいということを最近知ったからだ。

          複雑な思いがよぎった。

          私は、記憶というものに、特別に深い関心がある。
          時間や空間ということについても、同様だ。

          そういう思いとともに、「変化」というものについて考えることが多い。
          街は、かように変わるのだなと思わされた。

          京浜蒲田駅から、JR蒲田駅へくる途中に、
          ある理解があった。一面、「記憶」には、あまり意味がないということを、
          強く感じた。

          私の知っている過去の蒲田駅周辺の世界は、もうそこには、何もない。
          確かに道筋の一部に「面影」があっても、
          記憶とは、まるで無関係な世界が、いまこの場にあることを知って。
          ショックだった。

          バシャールは、私たちの見る物理的な現実世界は、
          私たちの意識が創り出したすべては幻想であるという。

          いま見ている世界が、所詮、夢のような幻想であるなら、
          記憶は、幻想のかけらということになるだろう。

          今回の蒲田駅周辺の散策は、
          私にとっては、物理的な現実と時間、空間、思考エネルギーの物質化とともに、
          そのアプローチへの入り口の一つに過ぎない。

           

           

           

          posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 21:29 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          ☆ミルキー・チョコのような夜
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            新年2日の夕刻の事。大手スーパーで、明治ハイ・ミルクチョコレートを買った。
            赤いラベルの板チョコだ。ミルキーでマイルドな味を欲していたのだ。
            いつもなら、アーモンド入りのチョコを買うのに、
            このときは、ちょっとした気分が違った。
            夜遅い時間になって、ふと、忘れていたチョコの事を思い出して食べた。
            ほんの少し前、大切に思う友人からメールがあって、
            もう少し起きていようという気分もあったからだ。
            普段なら、寝る時間も迫ってきていたので、何かを食べたりすることは、
            まずない。

            ミルキーなチョコを味わいながら、ふと、半年前の事を思い出していた。

            それは、別な知人から、突然、連絡があり、
            撮影を手伝ってくれる誰かを知らないか?という
            内容の電話だった。6月初旬の頃のことだ。

            その電話を受け、私には、少し躊躇があった。
            このブログで、何度か書いたように、私は、映像の仕事をしていた。
            いわゆるディレクターだったからだ。
            撮影の仕事依頼は、もう何年も前からなく。その状況から、
            自分にそうした仕事が来ることは、もう全く期待できなかったし、
            あきらめてもいた。
            事実、今の私は、生きるために、ネット頼みで、業種も変えている。
            簡単な学習教材のネット販売をし、午前中は、パートの仕事もしながら、
            なんとかやって来ている身だ。

            そうは思いつつも、その友人に、恐る恐る、しかしそれを悟られないよう。
            「アレー?ほんの少し前まで撮影の仕事しているって、
            言わなかったけ?」と、やや強気になって、
            自分を売り込んだ。

            その後、話はとんとん拍子に進んだ。

            撮影というのは、簡単に言えば、オンライン学習教材の撮影だった。
            大量にコンテンツが必要になることを思えば、
            ヤリガイはあると思ってもいた。しかも、

            電話をくれた友人の彼は、私のネット通販をするきっかけを作ってくれた、
            ある意味、恩人だ。

            今度も、きっと何か。
            運が、そんな転機を持ち込んできてくれたんだと、
            そう安易に結びつけたとしても、
            誰にも、一定の理解はしていただけるだろう。

            しかし、
            事の顛末は、こちらの甘い期待と思いとは、大いに異なった。
            まず決定的に予算がないこと。
            撮影の業界で、いや広告業界が特にそうだが。
            一番多いのが、予算がまるでないのに、口はどんどん出すという。
            結局、ロクな結論も出せずに、グダグダになるパターンだ。

            それが、まるで画に描いたように、この時の主流の縛りになった。
            企画意図は良かったのが。
            何をするか、何が大事かの方針が一切定まってなく。
            撮影のイロハを全く知らない企業のシロウトの上層部連中によって、
            ちぐはぐな要求ばかりが際立つ中、妙な野心たっぷりに、無茶ぶりをしてきた。
            結局、船頭ばかりが増え、わけの分からないものになった。

            私は、踊る会議には、参加することはなかったが、参加も求められずだった。
            だが、
            この仕事を紹介してくれた友人からの言葉ですべてが、読み取れた。

            そして、私は、私のスタンスは変えず、
            企画意図の初心に帰るべきだと、友人に伝えるが、
            所詮、彼は、契約社員で。しかも、彼には、これまで売上もなかった。
            従って、説得力もない。力がない。

            少なからず私が担当した分は、一定の形には、なったが。
            疲労感だけが残った。

            これ以上は、このブログに書くことでもない下世話な行き違いの話で、
            今日のブログのテーマではない。ただ一定の経緯を示さないと、
            私のブログの意味が理解できないので、さわりを紹介した。

            話を戻そう。

            ともかく彼のおかげで、私は撮影に臨むことになった。
            6月の中旬だった。

            カメラマンは、私の以前、コンビを組んでいた仲間だ。

            撮影前日、私は、吐き気と胸苦しさに苦しんだ。
            その日、ある駅前のスーパーで、有名メーカーのドラ焼きを食べた。
            ビニールに密封されて日付も問題なかったし、
            封を破り、少し妙だなと思う瞬間があったが。気にせずに食べた。
            そして夕方、腹痛と、吐き気に苦しんだ。明日は撮影があるのに、
            「大丈夫だろうか…。」
            気持が悪いが、寝付けない。とうとう朝まで、寝られず。
            撮影場所に向かった。まだ吐きたい気分がある。

            中野新橋という駅まで、何とか辿り着いた。眠い上に、吐き気がある。
            休みたいが、休めない。

            スタジオで、彼に挨拶をし、事情を説明したが。どら焼きというのが、
            説得力がない。やがて懐かしいカメラマンも来た。
            彼にも、事情を話すが本気にされなかった。

            撮影は、思ったよりはるかに順調だった。

            ただ夕方になると、私の眠気は、いよいよ高まって。
            収録の最中に、寝てしまうという失態もあった。

            「ヨーイ!スタート」の掛け声をかけても、
            「カット」の声を出さないので、カメラマンから、促されて起された。
            いくら体調不良とはいえ、ほんとに恥ずかしい失態だった。

            どうにか、撮影が時間内でほぼ順調に終わった。
            ほぼ順調…もちろん撮影中に寝てしまうという失態がなければという意味だが。

            機材を撤収し、各々帰途に着いた。

            私は、食欲もなく、眠く、気怠い状態のまま、新宿駅に着いた。
            そこまで一緒だったスタッフとも別れ、一人、駅構内周辺を歩き回った。
            どこをどう行けばいいのか。
            すっかり様子の変わった新宿駅は迷路のようだ。
            フラフラになりながら、大江戸線の掲示板を見つけた。
            「あーッ!あれで帰ろう…」

            矢印を頼りに、何とか、大江戸線に乗ることができた。
            そこから、しばらく不思議な感覚があった。
            これが、今日、ブログに書きたかった一番のテーマなのだ。

            おそらく時間は夜の10時半を回っていた頃だ。
            電車は比較的すいており、私の車両には、数人しかいなかった。
            楽に座れた。
            体調は、依然として悪い。眠気で、ふわふわした感じだった。
            トローンとした意識の中で、今日この日は、どこか充実感があった。
            懐かしい感覚が蘇ったのだ。

            撮影業界に入って3年目ぐらいの何とかやっていけそうな。
            好きな業界に入った誇りある感覚と甘美な思いに包まれていた。

            なぜか電車の音が聞こえない。静かな時間が流れる。無音な感覚で。
            そのまま、
            どうやら「六本木駅」に着いた。
            「えー、六本木だって?(なんで…)」
            大江戸線が、六本木を通っていることを知らなかったのだ。
            駅に、今どきの女性が二人が、椅子に並んで座っているのが見えた。
            彼らは乗り込んで来ない。まるでマネキンのように、二人黙って座っている。
            シュールな感覚を覚えた。
            同時に、「六本木」というキーワードで、
            誰にでもありそうなバカ騒ぎしていたころが、脳裏に浮かぶ。

            何かが足りていないという思いの中で、野心に燃えていた。
            そんな時代の空回りばかりの意欲が、ただ懐かしく心の中でざわめく。

            ウトウトしていたのだろうか。やっと、浜松町の駅に着いた。
            地下深いところから、地上に出たとき、外は、ひとしきりの雨。
            傘などない。天空を見上げると、高層ビルの窓のあかりが、眩い。
            夜の底を照らす灯が美しい。
            懐かしいあの頃の切なくそれでいて甘美な気分と、
            クリスタルな光の乱舞の中で、
            今日という日は、なんと素敵な一日だったのだなと感謝した。
            私は、大江戸線の中で、ほんの数分間、
            きっとあの時代のパラレルな世界にシフトしていたのかもしれない。

            ミルキーなチョコの口どけの中で、ふとその思いを巡らせていた。

             

             

             

             

             

            posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 13:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            ☆ピコ太郎は、ピコ太郎
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              昨年の12月下旬の、自棄に寒い日が続いた早朝の事だった。

              どこからか飛んできていたのだろう。

              アスファルトの歩道に落ちていたチラシか何かのような紙切れが、

              私の目の前で、一陣の風に呑み込まれて、ふわっと舞い上がった。

              その一瞬の出来事は、首筋を「ブルッ」とさせる悪寒が駆け抜けていったが、

              それだけではなかった。

               

              外的意図が働いた瞬間を観たのだ。

              (外的意図についての詳細は、

              「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン〈2〉魂の快/不快の選択を参照のこと )

               

              風に押されて、紙切れや木の葉が舞うなんて言う事は、珍しいことでも何でもない。

              どこにでも起こり得るありふれた光景だが。

              そのときの私の思いは、少し違っていた。別物として映ったのだ。

              妙な言い方だが、 「風に舞ったあの紙切れは、その瞬間をどう思っただろうか…?」 と

              考えずにはいられなかったのだ。

              さらに、紙切れは、風の力を受けなければ、少し前にあった場所を

              自ら変えることはなかった。

              おそらく、紙切れは紙切れで、今いる場所を変えたいと望んでいたのかもと。

              それが現実化したのだなと。 ある意味、擬人化して考えてもいた。

               

              より大晦日に近づいた日(12月29日)。

              Webのmsnニュースのサイトで、ピコ太郎の記事を観た。

              現時点(2017年1月2日段階)で、その記事は、以下のURLにある。

               

              【NHK紅白】ピコ太郎「人生何があるかわかりません!」
              http://www.rbbtoday.com/article/2016/12/29/148320.html

               

              ピコ太郎については、あれこれ言うつもりはないが。

              彼が、突然にYouTubeなどの動画に現れ、彼の歌う「PPAP」が、

              世界的に超大ブームを巻き起こしたこと、いまだにそれは世界の隅々に、

              さらなるブームを引き起こしつつある。

              そのことに、当然私は、大いなる関心を持った。

               

              ピコ太郎氏、ご本人は、大変に、謙虚な人らしい。

              個人的には知らないので、これ以上、云々することはできない。

              その謙虚さの片鱗が、

              前述の 

              【NHK紅白】ピコ太郎「人生何があるかわかりません!」 の記事だ。

               

              こんな世界的な大ブームを巻き起こすことなど、

              ピコ太郎本人すら想像だにしていなかったに違いない。

              私見をあえて述べさせていただければ、この芸風を、正直、理解できていない。

              面白いとも思わない。それは、私の主観で、どうでもいいことだ。

              その私が、ここで、もっとも興味深く思うのは、

               

              ピコ太郎氏に、外的意図の風が吹いたというところにある。

               

              一大ブームを巻き起こすために、少なくとも、汗水を垂らして、

              苦難に苦難を重ねてというような意味での、努力らしい努力もせずに、

              象徴的に言えば、一夜にして、 世界的に有名になり、彼の芸が、世界を席巻したことだ。

              人生には、こんなことが起こるのだということを、ピコ太郎氏は、見せてくれた。

              昨日(2017年1月1日)、やはりmsnのニュースで、

               

              またピコ太郎氏のニュースが取り上げられていたので、紹介しておきたい。

               

              【紅白】ピコ太郎 紅白ステージ裏でマツコに“抗議”

              (現時点(2017年1月2日段階)で、その記事は、以下のURLにある。)

              http://news.goo.ne.jp/article/dailysports/entertainment/20161231114.html

              タイトルを観たとき、

              芸能界によくある先輩、後輩のような縦社会的な、俗っぽい話の延長かと思ったが。

              少し違っていた。

              以下に記事の一部を引用する。

              ***********************************************************

              ピコ太郎が、

              冒頭からNHKホールの各所で寸劇を展開したスペシャルゲスト の

              タモリ&マツコ・デラックスと遭遇した。

              ステージ裏で、テレビカメラが回っていない時間帯に出くわし、

              ピコ太郎とマ ツコが言葉を交わした。会話の内容を聞かれると、

              ピコ太郎は「いつもマツコさ んが、僕のことを古坂さんと呼ぶんですけど、

              それは別人ですと言いました」と ニヤリとしていた。
              ************************************************************

              私が関心を示したのは、

              芸能界にある上下関係的にやかましいというような次元のことではない。

              引用の中のピコ太郎氏の言葉に、私はスゴイ!と思ったのだ。
              ************************************************************

              ピコ太郎は「いつもマツコさんが、僕のことを古坂さんと呼ぶんですけど、

              それは別人ですと言いました」とニヤリとしていた。
              *************************************************************

              の部分だ。

               

              ピコ太郎は、あくまでもピコ太郎なのだ。

               

              この超大ブームを創ったのは、古坂氏ではなく、

               

              ピコ太郎氏なのだ。

               

              そこを、古坂氏は、よく理解している点に、 私自身も「ハッ」とした。

              posted by: fukugakuru358 | 001/トランサーフィン | 12:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              ☆タイムラインの現象を体験しているのかもしれない
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                久しぶりに旧友にあった。
                何年ぶりだろうと計算すると、7−8年らしい。
                疎遠になって久しいいまでは、当時、何があったのかをすっかり忘れ、覚えていないが、
                ちょっと余計なことを口走ったのかもしれない。自分の方が年上であったこともあり、
                言い方として、悪意はなくても、少なからず、
                彼にはやや不快に感じたほどの表現で追いつめたのかもしれない。

                そんなことがあったのかも…と、どう差し引いても、
                自分に少しばかり非があるような違和感だけは残っている。
                その後、彼の連絡は途絶えたのだから。

                もう連絡はないだろうと思っていた。

                そんなところへ、
                2週間ほど前、電話があった。

                「おぉー…!」と応えた。それ以上の言葉がすぐには出ない。
                「いまは、どこで仕事してるんですか」と尋ねた。

                よく聞き取れない回答があって、
                「ふーん…」とだけ応答した。

                双方で、チグハグな近況の話を、小指の爪の先ほどした。

                彼には、以前フリーでいたころ、仕事をもらっていた関係で、どこか丁寧な口調になる。

                加えて、
                「何故、電話してきたの」か、などということは、一切、訊かない。
                何事もなかったかのような振る舞いをした。

                ともかく、「近いうち、呑もうよ。新橋あたりで」ということで、
                男の社交辞令のように電話を打ち切った。

                「まぁ、当面、連絡はないだろう」と思ったのだが。

                そして、再び一週間ほどで、また先方から連絡がきた。

                「電話しましたか?」と言うので。
                「いや。してないけど…」と返した。

                二言、三言、さし障りのない会話で、終わって。こちらとしては、
                「そう遠くない時期に、また呑みましょう…」と言って、会話を終えた。

                それから、また一週間ほどで連絡があった。「おぉー…!」と、また電話で応えた。
                今度は、彼の口が滑らかだった。「3年ほど前に、結婚した」とまで、自分で報告してきた。

                「えぇっ?そうなの…!」と云った。

                それ以上に、立ち入らずに言葉を濁した。会話が少しあって、
                「ま、そのうち呑もうよう」と言って、電話を終えるつもりだったが、
                「土曜なら」と先手を打たれ、結局、翌日、呑むことになった。

                指定の待ち合わせ場所で、彼にすぐ気付いた。
                まず、髪型が変わった。角刈りに変身している。体型は、変わっていない。
                以前のように、90キロ以上の体型を維持している。顔は丸い。顎と首周りの太さが一緒だ。
                会ってすぐに、「なぜ、角刈りにしたんだろう」かと思った。だが、理由は、訊かなかった。

                「コンタクトにしたの?」
                センスの悪かった眼鏡も辞めたらしい。
                「えぇ、はい。でも、度がね」というような返事だった。

                居酒屋に着く前の会話で、
                彼に、振り向いて、さすがに「少し老けたね。」とまた私が余計なことを言った。
                「そりゃあ、45(才)ですから」という。
                「あれ…。前、28(才)だって言ってなかった」「いつの話ですか、それ!」と突っ込まれた。
                最後に会ったときから、少し年月が経つが、それでも30代半ばぐらいのはずだと錯覚していた。
                居酒屋に入ってからも、その話になり、28(才)だと、言ったのは、ある教育紙の新聞社にいたときの
                ことだったと弁明していた。

                それにしても私は、
                ひどい思い違いをしていたものだ。

                余談だが、
                店に入る前に、私は、彼のメガネを外した顔を振り返って見たとき、
                誰かに似ているなと思ったが、それが誰か?すぐに思い出せずにいた。
                そのことが、なぜか、引っかかった。
                しかし、
                話が盛り上がった後半に、ようやく思い出したのだ。それが誰かが。
                元外務省出身で作家の佐藤優氏の風貌によく似ていると気付いた。
                彼にそれを言ったが、本人が佐藤氏を知っているかどうかは分からない。

                私の最大の関心は、彼が、相応の年月で齢を重ねていたこと、それが、
                明らかに見た目でも老けていたこと。自分の思い違いとのギャップもあったことだ。
                もちろん、同様に私も老けたのだろうが。

                ただ彼の風貌として、角刈りだったことは、想定外だった。さらに「結婚」までしていたこと。
                彼には、このブログは知られたくないが、正直、彼は、生涯、結婚できないタイプの側だと
                思っていた。この世の中の仕組みには、何かしら不思議で。
                簡単な割り算が通用しないらしいと思った。

                ともかく、彼の身の上を聞いた私は、表面上は、あまり驚いたそぶりは見せなかったものの、
                感じるものが充分にあった。そのことを久しぶりに、このブログに記述しておきたいと思った。

                しかし前段があまりに冗長に過ぎたが、自分の感じたことがその情緒の部分によって引き起こされたわけで、
                どうしても、そこを伝える必要があると判断し、説明的に記させていただいた。

                いま少し我慢して読み続けていただきたい。

                ここからが、本題だ。手短に纏めたいと思っている。

                バシャール〜『無時間のセオリー』
                https://www.youtube.com/watch?v=NnEunvlFRuI

                の一部を引用したい。

                バシャール:
                  「もし、全てのことが『今』に存在しているのなら、あなた方が過去と言っているもの、
                   未来と言っているものすべては『今』という時の違った呼び名であって
                   呼び名の違いこそあれ すべては『今』に存在しているのです。
                   『今』の捉え方の違いと考えみてください。
                   あなた方の言い伝えにあるように、『決まりきったもの』は何もないのです。
                   どうにでも捉えられるのです。ただ存在しているだけなのです。
                   あなたはあなたが発するエネルギー通りのことを体験しているのです。」

                これはバシャールが、私たちが体験する現実世界は、パラレルな無限の世界を、
                私たちの意識がフォーカスする現実に併せて、シフティングしていることを述べたものだ。
                その体験する現実そのものが、タイムラインの一つ一つで。

                バシャールは、続けて、次のように言う。
                  「でも、それを直線的に捉えているのです。あなた方は直線的な体験を
                     創造しているのです。つまり繋がった連続的なものを創造しているのです。
                     あなた方は、同時に存在している現実に過去とか未来とか便宜上名をつけて
                     呼んでいるのです。」

                と示唆する。

                私の見た彼は、
                過去と未来という直線的な一本の時間軸(タイムライン)の中で、
                意識が、過去を織り込んで創造した存在(イメージの産物)なのだなと思いが至った。

                私の意識の深い、実に深い底で、自分の直線的な時間へのシュミレーション的な思い込みとして、
                それにマッチングして、老けた彼を、登場させたのだ。

                そして、タイムラインの想定以上の大幅なシフティングよって、
                いまこの瞬間に行き着いた先のタイムライン上では、
                坊ちゃん、坊ちゃんした髪型から、彼は、角刈りでなければならなかったのだ。
                そればかりではない。メガネをはずし、コンタクトをし、結婚をしていたというオマケまで加筆されて。
                彼についての私のシナリオが書き換えられていたのだ。
                それは、本来、私の想像の延長線上では、つまり、過去と未来という直線的な一本の時間軸では、
                起こり得ないはずの想定が、彼の現在の姿を通じて示されたのだなとつくづく思った。
                文字通り、シフティングしたのだなと感じたのだ。


                 

                posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 17:11 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
                ☆見ているもの
                0

                  ある月曜の早朝、スーパー・マーケットでの出来事だ。
                  この大手スーパーでは、7時に地下の食料品売り場のみの営業が始まる。
                  朝の早い勤め人たちにとって、この利便性はとてもありがたい。

                  私はちょっとした買い物を済ませ、中庭の方に抜ける出口に向かおうとした。
                  ふと、そちらに見える大きな柱の掲示物に注意が向いた。
                  B全くらいの大きさのポスターのようなパネルだった。
                  ほとんど一面が、何かのイメージの写真らしかった。

                  で、当初は何気なくそこへ目がいっただけだったのだが。
                  パネルのヴィジュアルにどこか奇妙なものを感じた。
                  はっきり認識できないのだが、印象として
                  あの有名なスヌーピーの実写版か何かのような犬の横顔のように見えていた。
                  奇異だったのはその犬の表情が、とりわけ悪意を帯びておりワルなイメージ顔のような目つきに見えたのだ。

                  それは、スティーブン・キングの原作「IT」を映画化したときの、
                  ダーク・ヒーローの殺人ピエロが、怖い顔をして牙を向いたような表情に似て見えた。

                  「何なのだろう…あれ!」

                  そもそも、鮮度やさわやかさを演出する売場で。
                  つまり、明るい店内の雰囲気づくりに、とりわけ心を砕いているはずの食料品売り場で、
                  そんな悪意を感じるポスターがあるわけがない。
                  どう考えても相応しくない。

                  もちろん、私の見間違いなのだろうと、当然そう思った。
                  ちょうど出口の付近にあったので、近いづいた。

                  「……あぁ。」

                  いまより、5−6歩、近づいただでけで、
                  それが、私の云うのも憚るほどのひどい誤認だったことが分かった。

                  結論から言おう。そのヴィジュアルは、透過光を背景に白アクリルの上に乗せた
                  野菜が豊富にある写真のイメージで、ジャガイモやトウモロコシ、
                  ホウレンソウ、ピーマンなど、それらが、適度に配置されていたもので。
                  生鮮野菜のシズル効果を狙ったパネルだった。
                  目のように見えたのは、実は、黒いカボチャと、ホウレンソウの根の黒い部分の一部だった。
                  野菜のイメージ写真とはいえ、長期に飾ってあったためか。
                  全体が青っぽく色褪せており、真ん中の白っぽい部分が顔の輪郭ように見えていたのだ。

                  野菜のレイアウトの妙で、遠くからそれを見た私には、
                  ある意味、ロールシャッハの何に見えるみたいなものだった。
                  そして、私には
                  悪意をもった「ワル」なスヌーピーのような顔のアップに見えてしまっただけだった。

                  「なあーんだ。」ということだろう。
                  所詮、単なる見間違えで、片づけてしまえばそれまでの話だ。

                  だが私は、良い錯覚をさせてもらったと思った。
                  私たちが見ている世界(物理的現実)というのは、誰にとっても、
                  決して同じではないということの重要な一つになったからだ。

                  これは、私自身のいまの心がフォーカスしているものを
                  物理的に投影して表したものかもしれないと感じたことだ。

                  その投影とは、
                  今日、いつものように向かう先でのまだ起きてもいないことへの
                  不安や心配、不満、ストレスなどが複雑に入り組んで、結果、
                  そのパネルを見た印象の中に反映させていたのかもしれないと、ふと感じた。

                  その日、幸い特別に不快な出来事はなかったが。タイムラグで、
                  帳尻を合わせることになるだろうとは思っている。

                  再び、午後、帰り道にそのスーパーに行ったときだ。
                  早朝、入店した入り口とは、異なる。

                  表玄関から地下の食料品売場に向かって、
                  エスカレーターを利用した。
                  そこで、今朝見たあの野菜のパネルに気づいて驚いた。
                  もっとおぞましいほどの悪意に満ちたゴーストのように見えたからだ。

                  「マイッタな…」とふと思った。少し病んでいるのかもしれない…。
                  私には、前出したように見えた掲示物だが。
                  人によっては、違う見方をしているはずだ。もっと明るいものの象徴のように見えてもいい。

                  それから数日が経って、昨日だ。

                  以前にも、このブログで書いたことのある、新丸子の駅から武蔵小杉の超高層マンションが見える
                  その景色に、どうしても出会いたくて、駅を降り立った。
                  そんな気分になったのは、
                  「もったいない」と思うほど、すっきりした青空だったからだ。
                  ともかく自由な空気を満喫したかった。

                  その新丸子の東側で、武蔵小杉方面を見て、ふと思った。
                  いま超高層マンションは見えているのだが。

                  ずっと以前にこの場所へ来たときには、その風景に全く気付いていたなかったということへの
                  意味を考えた。
                  確かに、以前、この場に来たのは、時間帯も異なる。夜と昼の違いがあるかもしれない。
                  また目的も、夜遊びのようなもので、友人と飲み歩くために来ただけだった。
                  その時の私の関心事は、今とはまったく異なる。
                  向けている対象のフォーカスがまるで違っていた。

                  いまは、そうした状況からは大きく抜け出て、美しい風景の一つに対象が向けられている。
                  その自分が、いまフォーカスするものが変わっているのだ。
                  どちらが良いではなく。
                  自分の思考がすでに変わっているということの証しだ。


                  そして、見えるものが変わってくるということなのだろう。

                  posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 12:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  ☆寝覚めの悪い夢
                  0

                    嫌な夢を見た。

                    一言で云えば、実際にあり得るという意味で、怖い夢を見た。
                    すでに数日が経つのに、いまでもしっかり覚えている。

                    怖いといっても、霊的な、あるいはオカルト的な夢のような怖さではない。

                    今日のブログでは、
                    その夢の、その夢が何だったのか、について書いてみたい。

                    物理的現実の私にとって、
                    いまの私の習慣として、夜遅く呑み歩くことは、ほとんどないが。
                    数年前までは、少しばかり遊び歩いていたことがあった。

                    私の見た夢というのは、
                    その友人らと、いま現在も呑み歩いているというような設定の錯覚の夢だった。

                    私は、何らかの理由で知り合った友人と語り合いながら歩いている。
                    夢中になって話をしていた。

                    そして、私が長い間、よく呑み歩いた古くからの友人が、私たち二人にやや遅れて後方を、
                    5メートルくらい離れて、フラフラ歩いているという夢だった。

                    私はその友人をチラ見しながら、ちゃんと私たちの後を付いてきているか気配りしながら、
                    新たに知り合った友人と熱心に話をしている。

                    場所は、有楽町か新橋のようなところで、安い居酒屋で呑み終えて、そのまま、
                    ふらふらと浜松町付近までを歩いている設定だ。
                    しかし、夢の中のそこは、現実のその地域ではまったくなく、風景も実際には、
                    夢に見ているような場所はない。夢の中だけで、ただそのあたりにいると信じ込んでいるだけだった。
                    表通りではなく、一本内側の暗い道を、私たち3人が、やや千鳥足を楽しみながら、
                    いい気分で歩いていた。

                    私の右傍らには、夢の中で友人になった人物が居る。彼の顔の上あたりには、
                    高速道路のような高架がある。
                    それを感じつつ、ちょっとした4辻を歩いていた。

                    裏路地といっても、ところどころに、ポツンと赤ちょうちんも見える。
                    そんな時だ。
                    私は、妙な人物たちを数人見かけた。私の傍らの友人は、
                    私にいろいろと話しかけているので、
                    おそらくその人物たちについては、当初、気づいていなかったはずだ。

                    私は、その不審な人物たちを、何となく違和感のある風景の一部のように、
                    ただ感じていただけなので、それほど注視していたわけではなかった。

                    で、彼らのほぼ傍を通り過ぎる時、ただならぬものを見た。
                    つまり、平凡な私たちには、あってはならない独特の世界に出くわしたように思った。

                    女が、半裸のままで色白の美しい背中をこちらに見せていたのだ。
                    華奢ながら、腰のくびれが、あまりにもなまめかしい稜線を描いている。

                    腰のあたりには、半裸になるために脱ぎかけた赤い色味の着物か何かが、
                    纏わりついている。
                    女性は、両膝を折って、足のかかとに形のいい尻を載せているような格好だった。
                    姿勢は凛としている。
                    それを見ただけで、この女性は、
                    並々ならぬ美しい女なのだろうと、すぐに想像した。女は、おそらく20代半ば。
                    横顔がチラッと見えた。鼻筋も通っている。髪はアップにして、襟足をきれいに整えている。
                    これから起きることを
                    すでに同意済みで、ここにいるようだ。

                    すべてをわきまえた美人だ。

                    こんな場所で、女が半裸を晒している姿は、どう見てもおかしい。
                    それを分別するより、もっと前に、
                    もはや取り返しのつかない場面に出くわしたと感じたのは、
                    この女性の前にいる男のせいだった。

                    ひと目で、その筋の男とわかる男が、
                    暖簾も提灯もあえて外した居酒屋とわかる店の前で、
                    店の中の誰かに、何かを吟じているのだ。

                    店からは単調な光が漏れている。しかし、その筋の男は、閉じられた店の前に立ち、
                    しきりに中にいるらしい人物たちに、何かを訴えるように吟じている。
                    この男女のほかには、やはり飛び抜けた美しい二人の女たちが、膝まづいて、
                    男の唄に厳粛に聞き入っていた。

                    私は、唄の内容は、正確にはわからなかったが、その状況は、なんとなく察したのだ。

                    店の中にいる人物は、どうやらその筋の世界の大物で、この女たちは、
                    その大物のための一夜の宛がいぶちとして、連れてこられたらしいということを悟った。
                    当然、それなりの大きなお金が動いているのだろうということも女たちを見てそう感じた。

                    店の中からは、一切声が漏れてこない。吟じる男の声だけが、声高に、佳境に入った頃、
                    そのもっとも美しい半裸の女が、ついに全裸になって、男と並ぶように、店の前に向かって立った。

                    私は、とんでもない場面に今いることに、ゾッとした。

                    「ヤバい…。」独りごちた。

                    私のそばにいる友人も、すでに状況は悟ったようだ。だが、私は、なぜこんなところで、
                    こんな人物たちがいるのかを考えるよりも、いまこの状況が、
                    私たちのこれから数分後の消息に関わることを直感して、
                    まったく何も気づいていないただの酔っ払いの通りすがりを演じつつ、
                    その場をさり気なく通り抜けた。

                    そして、近くに路地が見えたあたりで、友人ともに、ただ走り出した。
                    だが、私は、すぐに異変に気付いた。
                    私たちの後ろにいた長年の私の友人が、付いてきていない。

                    「うわぁ−、まずい…。」

                    私は、この場の異様な人物たちと争える状況でないことをすぐに察して、
                    逃げることを優先した。それしかなかった。

                    その刹那、先ほどのその筋ののぶとい声が、私たちを捕まえろという声が、
                    後ろから聞こえた。もう躊躇はできない。逃げるが勝ちだ。

                    そして、一方で、
                    長年の友人は、すでに捕まっただろうとも思った。
                    どうしようもない。相手が悪すぎる。

                    私たち二人は、せめて細い路地を、いろいろ曲がりくねって切り抜けて、
                    どんどん逃げた。
                    長く感じた数分後、追っ手は、ほぼ撒けたらしいと思った。

                    しかし、友人が捕まっているとするなら、いずれ私たちの情報も知れるだろうと思った。
                    どう転んでも、「まずい!」ことになった。

                    不安と恐怖に駆られた。このとき私の意識は、夢から目覚めつつ、ほぼ半睡になりかけていた。
                    それほど怖かったのだ。しかし、夢と感じる余裕はなく、
                    ひたすらこの状況から逃れたいと思っていた。

                    そのウトウトした意識の中でも私は、なぜ私たちは、このような場面に出くわす前に、
                    ちょっとした妙な空気感に気づかなかったのだろうと思った。
                    普通なら、この儀式めいたこと行っているこのような場所に一般人が近づけないように、
                    それなりの男たちが、居るはずだろうにと。
                    なぜ、そこを意図せず潜り抜けてしまったのか。運、不運についても考えてしまった。

                    そんなことを考えつつ、夢から目覚めた。

                    目が覚めたとはいえ、あまりにリアルな夢で。
                    こんなことは、どこかにあり得そうなので、うっかりそんな場面に出くわしたらと、
                    思わずゾッとした。ただただ後味の悪い夢で、怖いと思うしかなかった。
                    男たちに追われたことが、特に怖かった。

                    起きてからも、しばらくこの夢のことを考えていた。
                    この夢は一体何だったのだろうか…ということを考えた。
                    決して、夢の心理分析をしたいのではない。そんな気分にはなれなかった。

                    むしろ、ある理解が、私の気分を暗くした。

                    この妙な光景、恐ろしいほどにリアルさを湛えていたこと。
                    そのディテールの一つ一つが、私にとって、後味の悪さを残した。

                    そして、私の心の深い部分で、沸々としてある種の理解が、
                    私に気づきを促していると感じた。

                    私の見解を言わせていただこう。
                    この体験は、パラレルな別次元での私の身に起きていた事実なのではないかと、
                    ふと思った。
                    私は、物質的な眠りの中で、私が、日常と思って、フォーカスしている現実のラインの一部で、
                    別次元の私のラインがたまたま接点を持ちクロスした。そういうことなのだろうと理解した。

                    私の後味が悪かった最大の理由は、
                    これも別次元の私がいま体験しているリアリティの一部なのだうろなと
                    そう思ったことだ。

                     

                     

                    posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 09:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    ☆オブジェクト
                    0

                      ある日、
                      YouTubeの動画をただ何気なく観ていた。
                      特にどうということもなく。

                      そのタイトルは、
                      ☆Metal Gear Solid 5: The Phantom Pain - Fox Engine Demo @ TGS 2014 TRUE-HD QUALITY
                      http://www.youtube.com/watch?v=qCs0xxUS5as

                      だった。
                      漫然と見始めたはずだったが、内容に驚いた。

                      この動画は、3Dゲーム制作アプリの凄さのDEMOのようだ。
                      制作裏話的なものらしい。

                      この動画を見ながら私は、
                      3D・CG制作アプリのパフォーマンス能力の高さに、ひたすら圧倒された。
                      凄い!凄い!凄い!に尽きる。

                      そして私が、この制作アプリからすぐに直感したのは、
                      物理的現実世界がどのように、可変的に、多様に創造されるのかを考える上で、
                      ちょっとしたヒントにもなる…と思ったことだ。

                      少なくも重要な答えの一つが、この動画に織り込まれているように思った。

                      それは、
                      あくまでも私の独自な解釈ではある。
                      これで世界が創造される仕組みをすべて解釈できるなどというつもりは全くない。
                      恐らく、そのほんの一断面を少し理解できるだけだろうと思っている程度にすぎない。
                      その程度において、単なる私の独善的な解釈をあえて、
                      気付きとともに戯言の延長で申し述べているだけだ。なので、
                      このブログをお読みいただいた方は、絶対に惑わされないでいただきたい。

                      さて、この動画で、私が驚いたのは、何といっても、
                      3DゲームのCGの制作現場で、背景(風景または地形の状態)やその場面に登場する
                      人物たちのそれぞれの動き、動植物や環境の状態、建物、日照の程度、天候の変化、時間の推移などが、
                      バックグラウンドのタイムスケージュールとプログラミングされた意図に沿って、動いていることだ。
                      しかも、人や動植物等は、さらにタイムスケジュールに左右されない独自の動きも持っているようだ。
                      すべてがそれぞれの意思を持っているかのように。
                      動画からはそう感じたが、すべてここでの指摘が的を射ているのかどうか、何とも言えないが。

                      いずれにせよ、この動画から感じたのは、
                      現実的世界で一定の合理性を持って起こり得そうなあらゆるパフォーマンスが、
                      組み込まれており、すべてオブジェクト化され、データ化されていることだった。
                      (もっとも、自然は、もっとリアルだし、多様でもあるが。)

                      それらのオブジェクト化されたパーツは、もちろん制限はあるのだろうが、
                      場面の状況の必要に応じて、
                      リアルに見せるための数種のパラメーターが受け取り可能なようだ。
                      例えば、画面に貼り付けた木々の縮尺は自由で、量的に重ね合わせて、
                      ちょっとした森にもなる。

                      風が吹いているような演出として、それらの木の葉が、乱数の影響を受けながら揺れたりもする。
                      さらに、わずかな雑草しか生えていない荒野に、雑草を繁茂させたり、小さな水たまりを貼り付けて、
                      それが自在に単なる水たまりから池やちょっとした湖のようにも変化を加えたりできる。
                      しかも湖や池の表面にさざ波を付け加えることもできるようだ。

                      このようなパーツのそれぞれは、オブジェクト化される前には作業として、
                      きっと地味で単調で、気の遠くなるような日々の分業作業を存分に積み重ねた結果
                      なのだろうと思う。
                      しかし、それらが、一旦、データベース化されてしまえば、物理的現実世界を表現するときには、
                      使い勝手よく、極めて容易に行える大きなメリットもある。

                      こうしたことは前述した動画を見てもらえば、
                      制作する下準備の大変さとともに、合理化した後のメリットが、
                      容易に想像できる3DゲームのCG制作アプリの紹介だった。

                      前段が長くなって申し訳ないが、ここから後半が、本日のブログで述べたいテーマとなる。
                      それを述べさせていただくと、こうだ。

                      私たちが存在していると認識しているこの物質的世界は、
                      3Dゲーム制作のようなものだということ。
                      ある意味オブジェクト化された世界なのでないのかという気づきだ。

                      つまり、
                      たとえ「今ここ」にあるときも、この物理的現実の世界は、
                      私たちの内面を鏡のように映し出して現れるホノグラムのような世界であり、
                      すべては幻想なのだという認識だ。

                      私は、よくとある比較的高層の高見から遠くを眺めて見たりする。
                      特に、都市型高層群の建築物が遠く立ち並ぶ人工物の街並みを見るのがとても好きだからだ。

                      そのこともあって、
                      いつからか私は、風景について、
                      すべての街並みや眼下に見える人々、自動車や自転車などに乗る人々の姿、
                      木々や空の雲、いま吸っているこの空気、気温、空にチョークでなぞったような飛行機雲まで、
                      何でもかんでも、いま私の意識状態に必要なものがオブジェクト化されており、
                      それが現れてくるものなのではないかという解釈をするようになった。

                      そして、今見えている数十キロ先の風景なども、実は、私がこの高見の場所から降りたとき、
                      その風景は、一変する。消える。

                      つまり、
                      私がいま優先して考えなければならない世俗的な要素が、
                      私の意識状態に合わせて、すべて置き変えられるのではないかと思っている。

                      例えば、階下へ降り立ったとき、選りによって、
                      挨拶も返さない、横柄で、高慢チキなクソババアと出会ったとする。
                      そして、不快になるとしよう。

                      理性的には、そんな意識状態を抱くことがマズイなと思いつつも、
                      一時的であっても、瞬間、嫌な気分になる。
                      そうなれば、まんまと状況の罠にはまってしまう。

                      というのも、不覚にも、私自身が、状況にそのまま反応し、不快さを焚きつけてしまったことが、
                      いま新たな原因となって、
                      結果、いづれ最適なタイミングで、不快を呼び起こす本人そのものか、
                      または別な人物や出来事を介して、
                      不快なものを、再び体験させられることになる。
                      不快が、不快を招く。よくあることだ。

                      こうした場合、すべてが、
                      意識世界のずっと向こうの深い部分で、
                      すでに用意されていたオブジェクトなのではないのかと思っている。

                      つい数年前まで動画と言えば、再生をスムーズにするために、
                      デジタル・データの圧縮技術を念頭に入れなければならなかったが。
                      その技術上では、動きのほとんどない共通する背景、または環境等は、
                      圧縮する処理をできるだけ可能な限り省いて、負荷を軽くするというアプリ上の技術があった。

                      それと同様なことが、意識世界においてもあるのではないだろうか。

                      新たに世界を構成する不快なクソババアの動きだけを、
                      アカシックレコード的な形而上学的世界から、
                      オブジェクトとして、引張り出して、3Dのレイヤーのように貼り付け、
                      私の現実世界に登場させるのではないかという解釈を思ってみたりする。

                      この不快な状況についてさらに突っ込んで言えば、
                      通常は、すぐに気を取り直して、
                      これから為すべ作業に意識を切り替え、次の段取りをするとしよう。
                      すると、ほんの少し前に見た風景のことは、
                      すっかりこの時点では、私の意識からすべて消え去ってしまうことになる。

                      そのとき、私なりにこんな解釈をしたくなる。
                      先ほど見た素敵な風景は、私の意識の中で、すでに消え去っており、
                      その残像の燃えカスすら消滅している。

                      その時に何が起きているだろうか。

                      物質世界において確かに存在していたように錯覚していた風景は、
                      もはやそこには存在しないということだ。
                      「今、ここ」の瞬間の意識にとっては、全く必要がないものなので、
                      存続させておく理由がないので、
                      その意味おいて、無駄なエネルギー消費をすることはないことになる。

                      私たちの意識世界においては、
                      存在する必然性がないものは、超瞬間的に消えるそう言うものだろうと思っている。
                      また、その逆に、存在する必然性に疑問が一切なく、意識したものは、超瞬間的に、現れる。
                      そんなふうに私は思っている。


                      以上は、私の勝手な妄想だと思っていただいて、結構だ。

                       

                      posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 19:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |