Search
Calendar
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< September 2017 >>
Recommend
トランサーフィン鏡の「超」法則 リンゴが空へと落下する――奇跡の願望実現法 (超★スピ)
トランサーフィン鏡の「超」法則 リンゴが空へと落下する――奇跡の願望実現法 (超★スピ) (JUGEMレビュー »)
ヴァジム・ゼランド
トランサーフィン第4巻 この本の特に第2章の圧倒的な概念が、この世界は、「二元鏡」の世界であること、さらに「神々の夢見(この世)」だとする世界観によって、私たちの認識を大いに変えるだろう。
Recommend
超スピリチュアルな夢実現/幸福獲得法―振り子の法則トランサーフィン (超★スピ)
超スピリチュアルな夢実現/幸福獲得法―振り子の法則トランサーフィン (超★スピ) (JUGEMレビュー »)
ヴァジム ゼランド
第1巻で、老監視員から投げかけられたあの奇妙なメッセージ「お前さんの持っているりんごは空へ落ちていくじゃろう」(第1巻より)という謎が、この第3巻で、いよいよ明らかになる。
Recommend
「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン〈2〉魂の快/不快の選択
「願望実現の法則」リアリティ・トランサーフィン〈2〉魂の快/不快の選択 (JUGEMレビュー »)
ヴァジム・ゼランド
この2巻の主要なテーマは、”外的意図”に尽きるだろう。そして、
願望実現のためには、外的意図をどうコントロールするかだ。
そのためには、魂(潜在意識)と理性(顕在意識)の一致が不可欠であるという。
Recommend
「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択
「振り子の法則」リアリティ・トランサーフィン―幸運の波/不運の波の選択 (JUGEMレビュー »)
ヴァジム ゼランド
「トランサーフィンは、まるでスーパーマーケットで商品を選ぶように、文字通り運命を選ぶ方法である。」という。いま願望を現実化するもっとも斬新な新しい世界観を語っている。
Recommend
マスターの教え
マスターの教え (JUGEMレビュー »)
ジョン マクドナルド
この本の著者であるジョン・マクドナルド自らが、≪読者のみなさんへ≫の中で、この本には”説明の出来ない「何か」”があると云わしめるくり返し読みたくなる不思議な本。
Recommend
斎藤一人 千年たってもいい話
斎藤一人 千年たってもいい話 (JUGEMレビュー »)
斎藤一人
私がお気に入りの斎藤一人さんの音声CDがまさに、これだ。特に幸せのなり方が素晴らしい。
New Entries
Recent Comment
Category
Archives
Profile
Links
mobile
qrcode
RSSATOM 無料ブログ作成サービス JUGEM
☆時に…思う
0

    時に、悩ましい相談を受けることがある。
    相手の都合や事情が多少でも分かっている場合には、
    内容は聞くまでもなく、
    おおよそ想像の通りのことが起きてることがある。

    当事者は、かなり苦しいだろうと思う。

    それが分かるだけに、話をした後などは、私なりの話が適切だったのかと
    考えてしまう。それで、しばらく眠れなくなることもある。
    ぜひ幸せになって欲しいと思っているので。

    その思いを伝えるのは、
    なかなか難しいと思っている。

    何らかの緊張した状態の相手にとっては、
    いま起きていることへの対応として、
    やはり物理的な状況に合わせた話しかできない。
    私自身、物理的現実に身を置いている以上、それが一定程度、道理というものだろうとも思う。
    あるいは、私の未熟さなのかもしれない。

    しかし、それでも、すべての状態や状況は、
    自分自身の心の内側から創り出されたもので、病をはじめ、不運な状態や不幸、
    疑念、不平、不満、怒り、愚痴をもたらすような様々な状態などは、
    結局、自分の内側の思いを変えるより方法がないことを伝える…が。

    そう思う一方で、
    物理的な現実のその最中にあって、
    いまその仕打ちにすっかり呑み込まれてしまっているその状況にあって、
    とても、なるほどそうだと考える余裕のない、それどころでない、
    目の前で苦しんでいる相手が居て、

    「自分はどうしたらいいのか」と

    問うてくることに対して、
    そんな話は、きっと無力なのだろうとも冷静に思う。

    それでも、
    その概念、つまり「原因」と「結果」を言うしかないと思っている。

    なお、あえて言うが、
    すべては、
    私たちの意識の内側で起きていることなのだからだ。

    私たちが、
    いま体験しているように錯覚している文字通りの物理的な現実は、
    私たちの心が深いところで考えているものの単なる投影に過ぎないので。

    その投影されたものを見て、体験してみて、いくら苦しんだところで…。
    また、
    いくら手を下しても、何も変わりようもないからだ。

    それは、

    切り出した金太郎飴のように、似た状況が常に繰り返されることになるだろう。

    投影は、所詮、その元となる発行体があって、
    それを映した虚像だとするなら、
    その元となる発行体の姿こそは、私たちの心のあり方でもある。

    そして、いますぐの即効性のない、その意味で、虚しいことでもあるが。
    でも、私たちの内側を変えるということは、確実に変化が起き始める重要な要素だ。
    私たちの変化次第だ。

    それは、真実なので、遠回りのようでいて、そして、最短の道だ。

    時に思うことは、
    悩ましい相手に言葉は届かないときがあっても、私自身は、
    それでもワンネスの概念が頭の隅に浮かんでくる。
    すべての状況とは、

    実は、そもそも…私自身の何かの投影でもあるという気づきを得る。
     

    posted by: fukugakuru358 | 015/苦境・困難 | 15:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    ☆手放せていないものがある
    0

         「困難、不和、障害などは、わたしたちがもはや必要としていないものを
          手放すのを拒否しているか、必要なものを拒否しているかのいずれかを
          示しています。」
         (「ザ・マスター・キー」チャールズ・F・ハアネル[著]
                  菅 靖彦[訳] 河出書房 p195)

      このメッセージには、私は、新たな指摘を受けたと唸ってしまった。
      悩める多くの人も、きっとそうだろう。

      原因は、すべて私たちの内側にあるという手厳しい指摘だからだ。

      例えば、お金に困っているとき、それは、何かを買ったり、あるいは請求書に見合うだけの支払うだけのお金がないか、足りないという結果が、現象として起きてくる。従って、達成感もなく、所有感も手に入れることができない。
      ただ、どうにかしなければならないという焦燥感だけが切迫してくる。

      私たちは、いつもその外的環境とその事実に苦しむのだ。
      このことに対して、ハアネル氏は、もはや必要としないものを手放せないでいるか。
      手放すのを惜しんでいると述べているのだ。

      何をだろうか。

      欲しいものを諦めたり、請求書を破り捨てるという意味ではない。
      お金がないという事実を心底、認めて絶望的になることでもない。

      私なりに考えてみた。
      この場合の困難とは、

      お金が足りない。不足しているという感情ではないだろうか。

      私は、自身の経験からも言えることは、度重なる不足感を感じる中で、さすがに、
      慢性的にそのような考えに陥っている自分という存在の認識に気づくことができた。

      もちろん、願望実現の本によって、思うことが叶うのだと述べられていても、
      特別な力が、
      思いがけず働くのでなければ(=そういうことは、思いがけずしばしあるのだ。)、
      魔法ではないので、やはり急場の支払いは、なんとか切り抜ける必要があるだろう。

      その上で、その感情をずっと引きずることが、次のネガティブな外的な状態を、
      また新たに生み出してしまうということあるので、充分な注意は必要なのだ。

      ハアネル氏の言葉に次のメッセージがある。

         「実在するのは思考だけです。状態は外の現れにすぎません。」
              (前出:p189)

      とある。繰り返しになるが、私たちは、私たちの抱く思考に注意をしなければならい。

      として、そのお金が足りないという感情を生み出しているのは、何なのか。
      それは、個人的な事情や差があるので、一概に言えないだろう。
      だが、それを見極める必要はあるのかもしれない。

      すべては、自分の中に原因があるからだ。

      これについて、
      トランサーフィンのヴァジム・ゼランド氏は、面白い対処法の一つを示唆している。

      例えば、私たが前述したように、お金が足りていないという状態にあるとき、
      私たちは、いまそのような人生ラインにいるものとする。つまり、
      その人生ライン上のお金が足りないことを、常に経験する運命のシナリオを
      体験しているとした場合だ。

      ゼランド氏はシリーズの第3巻で、次のように言う。

         「シナリオ上のネガティブに思われる変化をポジティブなものとしてみなそうと
          意図することで、すべてはまさしくそのようになるだろう。」
       (「[振り子の法則 トランサーフィン]超スピリチュアルな夢実現/幸福獲得法
          ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)

      これは、何を言っているかといえば、
      お金がいつも足りないという状況を体験するシナリオで、
      やっぱりそうなったかという、
      約束どおりのネガティブな気持ちになるお金のない状態について、
      それを喜んで受け入れてしまえと言っているのだ。

      お金がなくて、困っている状態をなんで喜べるのか。

      いままでの、私たちは、それを文字通り、ネガティブに困ってきたのだ。
      「お金がない」と愚痴や怒り、不安に苛まれてきたということだ。
      で、そこにばかりフォーカスしたとき、これが、どんな結果をもたらし、
      どんな状態を引き起こしたのだろう。

      少なくとも、事実は、再び、同じような結果を繰り返し産みだしてきたのだ。
      ハアネル氏の言葉をもう一度、思い起こそう。

         「実在するのは思考だけです。状態は外の現れにすぎません。」
              (前出:p189)

      なのだ。

      だから、ゼランド氏は、その状態について、ネガティブに思い悩むのではなく、
      むしろ喜んでしまえというのだ。

      なぜなら、
      ネガティブに、悩み、思い、苦しんで、これまでは、うまくいったのだろうか…。

      違う!

      結果は、いつもロクなことにならないことを、私たちは知っている。ならば、その逆転した考え方をすることに、どんな意味があるのか。

      そうすることは、とても難しいことだが、ひとつの苦しい状態に対し、
      遮断が生まれると、私は思う。

      苦しい状態に、苦しいという反応をせずに、喜んでみせるとき(=そんな状態を人生の勉強ができて楽しいと思うぐらいの感謝の気持ちなどを表すとき)、その苦しい状態の反応は、そこで一端、途切れるのだ。
      そして、ポジティブな感情に置き換えることで、違う展開に変わる可能性が生じるのだ。

      ゼランド氏は、続けて次のメッセージを述べている。

         「馬鹿げたとまではいかなくても、それほど説得力あるようにも思えない
          だろうか。
          明らかに敗北を喫したのに、どこがポジティブなものになり得るというのか、
          また災難に見舞われている最中に、どこがいいことだというのか。
          そうはいっても、
          この法則は本当に間違いなく働いてくれるのだ。」
                           (トランサーフィン第3巻 前述:p194)

      と述べている。これをネガティブな状態をポジティブな思いで、埋め合わせる「調 整」という言葉でゼランドは位置づけている。



       



      posted by: fukugakuru358 | 015/苦境・困難 | 13:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      ☆抵 抗
      0

        今朝、私自身の中で、「抵抗」という言葉が、気になった。
        「ザ・シークレット」(ロンダ・バンーン著 山川紘矢+亜希子・佐野美代子[訳] 角川書店)
        を、パッと開いたときに目に付いたからだ。
        私自身のいまの気持ちの一部を代弁してくれている暗示だな…と、正直思ったのだ。

        特に、「ザ・シークレット」の中で、引用の引用になるが、
        カール・ユング氏の言葉を
        ここでも引用させていただこう。

          「あなたが抵抗するものが存在しつづけます。」
             (「ザ・シークレット」 p228)

        この引用を黙読したとき、ズバリ、そのものだなと思った。
        実は、これはすべて「引き寄せの法則」の本質を表しているように思う。

        「抵抗」その言葉がピンと来なければ、望んでいないことに対して永続的に思いを集中することと、置き換えればいいだろうか。

        同じ本の中で、p228に登場のボブ・ドイル氏が、
        「抵抗」の弊害についてその一端を述べている。

           「抵抗するものが消えない理由は、抵抗していると『いやだ、私は
            こんなもの欲しくない。今の様なひどい気持ちになるから』と
            言っているに等しいからです。そういう時のあなたは『この気持ちが
            本当に嫌いだ』という強い感情を放射しているのです。すると、
            嫌いなものがあなたを追いかけてきます。」
                  (「ザ・シークレット」 p228)

        私は、この言葉を非常に身にしみて受け止めている。
        すでに明らかにしているように、私は、好まない仕事のあるバイト先で、リストラ宣告され、
        こちらとしてもパートの身であり、どうこう言ったところで始まらないと思っている。

        生活費の一部補填という意味では、いま失職するのは、手痛いし、事実、困るが、
        これはむしろ良い機会に恵まれたのだと「今の流れ」を積極的に受け入れている。
        だが、それとは真逆に、そこを辞めることを意識したあたりや、最近では決意をする前後から、
        そのバイト先で、特に顔を合わせたくない人物が増えた。
        しかも、面当てのようにという言葉が、文字通りふさわしいように。
        ……。そんな話は、その程度にしておこう。

        ともかく、
        自分の気持ちを戒めるが、逆にそのことで、
        返って望まないことにフォーカスしている自分に気づく。

        それが、ネガティブな結果をさらに引き寄せているのだなと強く感じる
        という悪循環を繰り返している。

        何も考えない。
        なるべく見ないで、物理的に場所を変えるという消極策を取っている。
        「流れ」に無抵抗に。しかし、消極策と自ら認めるように、
        うまいやり方ではないことは確かだ。

        私は、物理的な現実世界で、決して、うまい振る舞いができていないが、
        「ザ・シークレット」の本には、

        次の言葉の中に解決する「余地」があるように思う。紹介しておこう。

           「何かに抵抗するということは、既に送られてきた現実の映像を
            変えようとしていることなのです。これは意味のない努力です。
            自分の内に入り、あなたの思考や感情で新しい映像を作り、
            新しいシグナルを放射することが大切です。」
                   (「ザ・シークレット」 p228)

        と、そして、さらに次の言葉は、
        かなり手厳しいので、しっかり受け止める必要があるが、大切だと思う。

           「あなたがすでに現れたものに抵抗すると、結局、あなたの嫌いな映像に
            多くのエネルギーやパワーを注ぎ込むことになり、それらをもっと
            引き寄せてしまうのです。実際嫌なものはものすごい勢いであなたを
            追いかけてきます。するとそれらの出来事や状況はさらに悪化する
            だけです。それが『宇宙の法則』だからです。」
                  (「ザ・シークレット」 p229)

        私は、あえて自分の愚かさと、身の上の恥ずかしい話をしている。それは、顔を合わせたくない人物という分かりやすい設定でブログを書いているが。だが、思い違いをしないでいただきたいのは、(私自身も思い違いをしないようにするためにということを含めて、あえてこのような言い方をしている。)
        正確に言えば、
        いつも、望まない状況とは、象徴的に顔を合わせたくない人物だけと合うということではないということだ。
        常に、何らかの形を変えて、好ましくない状況だったり、境遇だったりする。
        自分の置かれた状況の中で、何らかの変化としてそれは、現れるということでもある。
        その度合いが、最も現れやすいところに、それが集中するのだろうと思う。

        もちろん、こんな私にも、実は、良いことだってたくさんある。
        そこをあえて書くが、
        一昨日(18日)、忘年会を開くことができた。酩酊まではしなくても、
        翌日まで残るほど、飲みすぎてしまった。
        あまりに楽しかったのだ。
        そこには、やや深刻でネガティブなことが続いたため、
        かなり自信を失い気弱になっている美しい友人もいた。


        posted by: fukugakuru358 | 015/苦境・困難 | 13:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        ☆意識せず毒する思い
        0

          昨日は、「面当てのように」で、ちょっとしたことが「足りない」状態に悩まされていることに触れた。その「足りない」は、数日で、すべてがパッと片付くのはずなのだが。
          依然、まだ続いており、これでもかと、
          文字通り「足りない」状態とその「変形」が押し寄せている。
          「変形」とは、「望んでいない」状態という出来事のことだ。少しばかり遭遇した。

          流通・販売業界などでは、「総決算」などという言葉があるが、まさにそれで、
          何も、こんなに連結してという感じだ。その悩まされる思いが、
          また次の瞬間を創るという意味で、面食らっている。
          手放したいが。なかなかその原因を掴めない。単純に言ってしまえば、すべて自分の心の中にある。ということだろう。それは百も承知。
          昨夜は、その原因を自宅に帰る際まで、ソボふる寒い雨の中、そのことを考えていた。
          一層、寒さが応える。

          そんな中、このブログにメッセージを度々、寄せていた鈴さんに紹介された津留晃一氏の言葉が、見に詰まる。私のまとまらない思いに、叱咤を加え、その上で、分析してくれ、その問題解決への道筋を示してくれている。だが、まだ私は津留氏の言葉が、消化仕切れずに、飲み込んでいる段階だ。あれやこれやの部分で、目を開かせていただいているメッセージもある。
          としても、まだ自分にそれを自分のものに仕切れていない。吟味が足りないのだ。
          もっと、もっと、津留氏の示してくれている概念と言葉を浴びる必要を感じる。

          いづれ、この場を借りて、津留氏の思いを描出できればいいと思う。ぜひ、そうしたい。

          私は、「ザ・シークレット」(ロンダ・バンーン著 山川紘矢+亜希子・佐野美代子[訳] 角川書店)に頼った。

          この本は、やはり凄い。実に広範に亘って、宇宙を観ている本なのだ。

          私が、いま曖昧ながら求めているものは、津留氏の世界に、どうやらありそうだ。
          だが、消化しづらい面があると思っている。読んで、私自身に浸透してくるまでに、
          少し時間を要しそうだ。

          この「ザ・シークレット」には、私が求めている「何か」について、津留氏のようにストレートに語る直接の記述はないが、その周辺については、述べられている。
          特に、巻末の「あなたはあなたの過去ではない」(p264)の中に、その片鱗が見て取れる。

          もどかしいが、それでも目的の場所へいくには、地図が必要なように。
          あらかじめその大まかなマップを見ておくのもいいだろう。
          そのディテールは、マップに出ていなくても。凡そ、その場所をどう捉えるかという意味でも。
          あるいは、役に立たないとしても。仮に役に立たなかったということがわかるということにおいても。人は、何をどう見たのかということを、確認する意味でも。

          私は、何年も続く繰り返し続く、そして忘れた頃に、再びやってくる私の「足りない」という思いの連鎖について、その原因を、曖昧ながら掴んではいる。

          その上で、

          「ザ・シークレット」の記述に、私に響く言葉があった。
          それは、引用の引用になるが、
          プレンティス・マルフォード氏の言葉だった。

             「人生の暗い面をいつも意識し、過去の不幸や落胆した事を
                  蒸し返して生活していくと、将来も同じような不幸や落胆する事に
                 巡り合うものです。」 
          (「ザ・シークレット」:p265より)

          この言葉が、私の今の心境を、一番に照らしてくれているように感じた。
          私自身、嫌なことは、すべて忘れてきたつもりだった。そういうドライな一面もあるように思っている。しかし、一方で、打ちのめされたなという様々な出来事について、何が原因しているかまでは、正直、よくわからない。ただ、数年前に、私自身の都合で作ったささやかな負債に、苦しんだ時期は、それなりにきつかった。
          もちろん、いまは基本的な合意による解決をみているし、私もそれに答えている。
          本来であれば、一応解決済みなのだ。のに、やはり、それなのだろう…。心深くには、それが残っているらしい。
          埋めても、埋めても、私の「足りない」、ささやかな恐怖がやってくる原因は、
          そこにありそうだなとは思っている。いま、こうしてブログを書きながら、そうなのだなと確信した。
          実際、私の「足りない」は、多くの場合は、お金という形で現れてきている。
          前述した「変形」は、その別バージョンなのだろう。

          私は、このブログに感謝しよう。
          いま、はっきり、そうなんだと、なぜか、自分の心が呟いた。
          このブログを書きながら、多少ともちぐはぐな心の中の何かに整理がついたようだ。

           

          posted by: fukugakuru358 | 015/苦境・困難 | 14:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          ☆変化?に気づいた
          0

            昨日のブログで、”☆昨日何を書こうとしたか”を書いたが、書ききれなかった。
            中途で終わってしまった。本日は、その続きを書かせていただこうと思う。

            私は、職場内で、個人的な深い関わりをほとんど持たないにようしてきた。
            私の意向という面ばかりでなく、その職場にその下地があることや物理的なシフトという問題も大いに関係もしている。私は、それでいいと思っている。
            一方で、私は、会いたくないと思っている職場内の人物がいる。なるべく顔を合わせないで済むなら、合わせたくない。そんな相手だ。きっと相手もそう思っているのだろうとも思うが。時間をズラすなどの方法もとったりするが、一定の効果もあるが、それでも限界はある。そして、避けていれば、避けるほどに、なぜか、相手も、別に意図していないのだろうが、私の持ち時間にあえて合わせてくる感じがる。

            私は、このブログを通じて自分自身の心の元気を培ってきたという側面がある。
            自分自身をポジティブに見つめ直す機会に当てているのだ。

            特に、このブログの流れの中で、トランサーフィンと出会ったのは、非常に大きく、
            今後も多大な影響をもたらしてくれるだろうと思っている。その中で、私なりにトランサーフィンを、実践してきたことがある。
            それが、度々、述べてきたスライドの実践などが、それに当たる。
            そして、結果もちゃんと出しているのだ。
            リアルな結果さえ得ている。その顕著な例が、私のフィリピン旅行だ。

            いつも、アクセスしてくださっている方なら、ご存知だと思うが。
            先月末(10月末)より、私は、約一週間をかけてフィリピンに行ってきた。
            その際に、スライドを利用したと述べた。本当に実践したのだ。
            なぜなら、経済的に厳しい状況にあったからだ。文字通り、藁にすがったのだ。

            一番の問題は、先立つ旅費がなかった。

            だけでなく、それ以前に、数次で利用できるパスポートさえもが、金欠で悩む私の足を引っ張るように、本年9月に期限切れを迎えていた。そのことは、思いがけない出費になった。
            ある意味、フィリピン行きは、困難だろうな…と、内心では思った。
            国際電話のときに、
            「彼女にいけないかも…」とも、率直に言ってさえいた。

            だが、そんな状況下にあってスライドによるイメージングを続けていた。

            そして、あるとき、
            その結果が出たらしい。

            思いがけないカタチで、お金が入手でき、実際に行くことができたからだ。
            ちょっと詳細は、憚るので、申し上げないが。単純に言えば、
            ほとんど縁の薄いお隣りさんのような方に借入れた格好だ。

            そのことは、すでにこのブログで、2週間程前後に記述させていただいた。
            ここでは、あえて、それ以上に述べない…こととしたい。

            そして、そのスライドのときに、一方では、フィリピン行きだけでなく、他の複数の望むこともあって、そのすべてにスライドをして良いかどうかは、、効果の点で迷ってはいたが、それでも他の望む現実化も期待して、やはりスライドを行っていた。

            それは、一例を挙げるとアルバイトを辞めることで。
            まずはそのアルバイトを辞めることに、フォーカスするのでなく、自分が望む仕事やその結果による報酬にスポットをあてるようにイメージ化を抱くべく集中することにしていた。

            その効果だと断じるのが、難しいが。
            それでも、確実に粘性の現実が、少しずつ変化をしてきているのだろうと、
            なぜか直感した。

            まず、職場内のサプの責任者の態度が、穏やかな性格に変わったのだ。粗探しをしなくなったのだ。この2−3ヶ月それを強く感じていた。
            その人物のことを言うと、体格がかなり小さく、そのことにコンプレックスを持っているようだった。その現れとして、スキンヘッドと自分で称して、頭を丸めていた。少しでも強面のように振舞っていたのだ。
            それがエスカレートした時には、本人の気分次第で、目を三角にして、人を睨みつけることもあった。私は、理不尽な彼の言動や態度にそのサブの責任者と一悶着を起こしたこともある。
            結果としては、なんとなくうやむやな形で、和解したが。
            その後は、仲がよくなった。

            私は、彼に威嚇を目的にするような態度や装いについて、以前から、それらは、ほとんど効果が薄く、何より威嚇にならないからすべきでないと言いたかった。一切、迫力もなく、結果としては、本人にとって、ネガティブな行為なので、辞めた方がいいと、何度か、遠回りに述べてきた。
            いづれ聞く耳を持つようになったら、キチンと伝えるつもりだった。
            といっても、最終的には、本人の問題でもあるので、必要以上に立ち入るつもりもなかったが。
            その人物が、最近になり、髪を伸ばし始めたのだ。しかも、笑顔が多くなった。その方が、ずっといいと思っていた。年相応の味があると思っていたのだ。しかし、かなり頑固な一面のある人物なので、素直に何を良しとするかを聞き入れることのできる人物でもなかった。

            その当人が、振る舞いを変えてきたことに、私は、驚いた。

            これは、変化だと思ったのだ。私自身で言えば、私の人生ラインが変わったなと思った。
            これ以外の例が多数あるのだが、それを述べるとどこかバカバカしさを伴うので、
            具体的な詳細は避ける。だが、簡単に例を挙げるなら、

            顔を合わせたくない数人の人物と、顔を合わせることがなくなったのだ。特に顕著だったのは、ある人物の別のエリアへの異動があったことだ。
            他にも、何人かが辞めた。その中には、やめないで欲しいと思った別のエリアの人物もいたが。
            本人の事情で、先月、その職場を去っていった。

            そして、私自身、このアルバイトのせいで、大きく足を痛めてしまった。そのことに、私は、重要な意味を見ている。感じている。先ほど、私は、その重要な分岐点にたったことを感じた。
            その職場の責任者に電話して、シフトの変更を依頼しようと、電話すると、
            結果は、思いがけない冷淡で厳しい態度だった。その瞬間に全てを悟った。

            それは、今の時点では言わないが。…はっきり、気づいた。
            これからどうなるだろうかと、一瞬、動揺したが、これは私のスライドが動き出したからだと思い直した。一見したところ、確かにネガティブな予兆が展開しているのだが。それらは、ただそう見えるだけだなのだと思い直した。
            バリアントの流れにきちんと乗ろう、乗るべきだと冷静に決意したのだ。
            流れに、無意味に抵抗すると、意外な形で、もっと荒々しカタチで、
            自分を却って深みに貶めることになるからだ。

            バリアントの流れに従って居れば、一時的に、ネガティブな結果を招くかもしれないが、
            その先には、宇宙によって用意された思いがけない結果が待っているのだろうと思うので。

             



            posted by: fukugakuru358 | 015/苦境・困難 | 13:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            ☆クリアリングとギフト
            0

              数日前に、本業以外の事で、膝を痛めていると書いた。
              そのことで、鈴さんから、丁寧な心配のメッセージをいただいた。
              ありがたい話だ。深く、感謝を申し上げます。

              私は、私自身で、いまその膝の痛みについて考えていた。いや、考えている。
              考え続けているのだ。
              私の場合は、たまたま、幸いなことに膝の痛みとして、
              「いま」における私の問題点が明らかになった。

              幸いなことにと書いたのには、ワケがある。
              人によっては、それが、難病だったり、
              「何で、自分がこんな目に遭うのか」と言いたくなるような
              命を落とすかもしれない生死を分かつ病だったりする。
              こうしたことは、
              実は、私たちの身に起きる場合、それだけではないのだ。
              つまり、
              直接、自分の身に起きなくても、結果、自分にも何らかの関わりを持たざるを得ないような、
              あるいは自分と関係を深く持つ人物に起きたり、ちょっとしたトラブルや問題に悩まされたり、
              「何故、こんなことに」というような苦境や困難と思われる状況なども、
              すべてを含むものが、どうやら私たちの身に起きることになっているようだ。

              それは、文字通り、好むと好まざるとに関わらず分岐点に起きるようだ。

              私は、私の膝の痛みについて、サインだと感じている。
              自分自身を見直す。いま、自分がそうしていることを、何らかのカタチで、
              糺す必要に迫られているか。問われているのではないかと想う機会として。
              あるいは、いつまでも、惰性に流され動けないでいる自分自身への、
              サインというより、むしろ、次第に厳しく見えるカタチの試練としてあるのではと。
              それは、カタチを変えた神(大いなる宇宙)からのサイン以上のもの、
              ギフトなのではないかといま思っている。
              正確には、気づかされた。

              鈴さんにメールレスポンスを返した後、ジョー・ビタリー博士の
              「ザ・キー」(ジョー・ビタリー[著] 鈴木彩子/今泉敦子[訳] イースト・プレス)
              を手にした。たまたま開いたその箇所が、
              《亡き妻への執着をクリアにすることで…》の項目で、p112だった。

              この項目は、見開き2ページ程度の僅かな内容だが、いくつかの重要な示唆をしてくれていた。
              内容としては、大まかに言えば、ビタリー博士の私的な話だとしながら、彼が、結果として良性のリンパ節に腫れの病に見舞われたこと。その原因は、物理的には、科学的な原因があるのだろう。だが、ビタリー博士は、スピリチュアルの深みに入り自身の心の喪失と向き合ったのだ。
              この一命を危うくするかもしれない病を、ビタリー博士は、

                 「この出来事はギフトなのかもしれないという考えが浮かびました。」
                   (前出:p112)

              と述べている。
              このページの中から、私は、2つのキーワードを見出した。
              それは、すでに述べた「ギフト」と、
              そして、「クリアリング」についてだった。
              このギフトというのは、
              かつてこのブログでも紹介し取り上げたことのある内容で。
              自らの車椅子生活と身体に障害を持つショーン・スティーブンソンの悟りのことだ。

              第2回 賢者の言葉 ショーンスティーブンソン by 動画マーケティング
              http://www.youtube.com/watch?v=EIO1E_I7ymM&feature=related

              でも示されている「ギフト」という考え方と共通のものだと思っている。
              私たちに降りかかる問題は、すべてカタチを変えた神からの「ギフト」なのだ。
              という教えだ。

              先の「ザ・キー」に話に戻るが、ビタリー博士は、リンパ節の病に不安を感じたとき、
              自身の今の状況すべてに「愛しています」という言葉を、何度も繰り返したという。

              その病が、どこから来たのかを、心を糺す過程で、20年を連れ添った亡妻への執着があったということに、突き当たったと触れている。

              ここで、簡単に触れるようなレベルでなく、本編では、ビタリー博士の亡妻への深い愛と思いが伝わってくる内容だ。ぜひ、著作から感じ取って欲しい。
              その亡妻への執着を和らげるために、クリアリングをしたという。

              それは、ホ・オポノ・ポノの言葉だ。
                 それまでの「愛しています」に加えて、

                「ごめんなさい。」「お許し下さい。」

              を心の中で、何度も念じてみたという。
              その結果であるとは、科学的に証拠だてて、関連付けて、絶対視して言うことは、
              もちろんできない。ビタリー博士は、医者で、適切な処置を受けていたであろうし、
              医者の指示にも、当然、従っていたのだろう。それらを含め、
              読者自身がどう思うかに掛っている。しかし、それでもなお、不思議なのは、

              少なくとも、当初、医者が悲観的な見解を示していた病について、
              先の言葉を心の中で念じ、くり返すうちに、ビタリー博士自身が、心にある亡妻への執着が
              クリアになっていく感じを得つつ、それに伴い、さらにリンパ節の腫れが徐々に変化し、
              やがて消えていく感じをもったという。

                 「わたしは胸部に現れたその腫れを愛し、それが伝えようとしたメッセージに耳を傾け、
                  消えていくのを見送ったのです。その後、MRI検査の結果、リンパ節の腫れは
                  無害なものだと判明しました。」
               (前出:p113)

               



              posted by: fukugakuru358 | 015/苦境・困難 | 13:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              ☆立ち塞がる巨大な山
              0

                私の個人的なことで恐縮だが、
                私は、ささやかなインターネット販売をしていると、以前、このブログで書いたことがある。
                それまでは、長くフリーランスで、映像制作の企画・演出という肩書きで、
                人生の幸運の波・不運の波というものを実感してきた。体験してきた。
                ただ有難いのは、私は、どんな厳しい場面に遭遇しても、どこかで、
                自分に起きていることを感情任せにしないで、爪の先ほどでわずかであるが、
                客観視してきたことだ。

                その象徴的な思いを表すなら、「いづれ何とかなるだろう。」「きっと、こんな暮らしから抜け出せる。」というような、楽観を少し含んだ思いがあったということだろう。

                結果は、そう期待したものにはならなかったが、それでも、気づけばしぶとく生きている。
                生き延びてきた。生かされているのだということに思いさえ至る。

                今日のブログで、なぜこんな独白めいたことを書こうと思ったかというと、
                私が行っているささやかな小売の商品販売の分野に、あの超巨大なネット通販会社が
                立ち塞がってきたからだ。
                どんなところにも、あの超巨人は、その食指を伸ばしてくるのだなと思った。
                勉強にさえなる。

                その影は、2年以上前から、感じていた。私の扱っている商品のメーカーが、
                その通販会社のルートでの販売を始めたときから、いづれこうなるだろうことを、
                案に予測していたからだ。逆に、この2年間、無風だったことがありがたい。

                私は、これまで比較的、順調に売上を右肩あがりに伸長してきた。おそらく今年も、
                その例を見ることになるとだろうと踏んでいた。ところが、思惑が外れた。
                今年の6月から、急に思うほどの、売上がなく、振るわなくなった。

                「何か、おかしいな…?」とその原因を調べているうちに、
                超巨人の姿が、はっきり見えだした。
                2ヶ月ほど前に、ドカン!と見えだしたのだ。

                いろいろ調べてみると、つい2−3ヶ月前に、その超巨人が、
                私の扱う商品の販売の広告を打ち出したのだ。すると、そのまま検索1位になってから、
                私の吹けば飛ぶような小売りが、大打撃を受け始めたのだ。

                これで、すべてが納得できた。

                8年間、コツコツやってきて、「あー、これからだ。」と思った矢先に、
                いきなり、
                巨大鯨が、大漁のイワシを飲み込むように、ガバっと現れた。その感じだ。

                もちろん、私は、やや失念した。無力感も感じた。
                来るべきものがきたな…という感じだ。

                ある程度の予測もし、しかも、自ら打つ手も資金力一切ない中で、
                成すべなく、ただ事態を見守ってきたという経緯があった。

                そして、いま、やはり大きな影響を受け始めて、
                これまでと違うのは、割と気持ちの切り替えがすぐにできたことだ。
                超巨人に腹を立てることもない。恨んでもいない。

                自由な経済原理のある意味では証だから。

                固より張り合って闘える相手ではない。

                小規模過ぎて、その資格すらない。
                相手がデカすぎて、まるで大巨人と蟻との比較が、ちょうどの喩えで、
                ふさわしい存在だとすぐに、
                自分の身の程の小ささをわきまえている。

                私は、トランサーフィン風に、自分の状況を捉えようと
                そのことに尽くした。

                その判断として、まず
                大巨人に一切の関心を持たないこと。それを、私の方針とした。
                その中で、
                私自身のポジティブな側面を探すことを考えてみることにしようと、いま思っている。

                今回、私は、困難というカタチをした最大の祝福を頂いたと思っている。
                ありがたい話だ。

                とするなら、私は、私なりの望む人生ラインをキチンと踏むだけだと思っている。
                なぜなら、私は、トランサーファーだからだ。

                  「すべてはうまく行く!なぜなら私がそう決めたから」
                    (「トランサーフィン『鏡の法則』」ヴァジム・ゼランド[著] 
                         ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店 p302)

                 

                posted by: fukugakuru358 | 015/苦境・困難 | 13:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                ☆ただ選択する
                0

                  総じて前向きであることを目指している私だが、時にはこんなこともあるという意味で、
                  今朝、目覚めてふと不安がよぎった。
                  一瞬ではあったが、そのことに思いをフォーカスしてしまった。
                  すぐに思い直して、起きることとした。
                  私は、それはそれで良しとした。

                  そのことがきっかけで、ふとある概念について考えた。
                  斎藤一人さんは、
                  幸せのなり方として、
                  「いま、幸せだなあ」と思うことだというメッセージを述べている。

                  この後半でもう少し述べるが、
                  この意味は、実にシンプルで、そして意味が深い。

                  そして、
                  「賢者の言葉」(ショーン・スティーブンソン[著]、トニー・シェイ[著]、ビル・ハリス[著]、エブン・ペーガン[著]、ダライ・ラマ法王14世[著]  ビッグピクチャーズ [監修] ダイヤモンド社)の本、および
                  プロモーション用、DVD版もあるのだが、その動画の一部が、YouTubeの動画で紹介されている。
                  第2回 賢者の言葉 ショーンスティーブンソン by 動画マーケティング
                  http://www.youtube.com/watch?v=EIO1E_I7ymM

                  ぜひ、ご覧になると良いだろう。

                  この中で登場するショーン・スティーブンソン氏のメッセージは、いつ観ても胸を打つ。
                  特に彼の子供時代の話は感動的だ。ショーンは、生まれた時から障害を持った子どもとして車椅子の生活を余儀なくされ、わずか身長90センチほどの身体で、
                  常に厳しい現実と向き合っていた。骨の成長が十分でなく、折れやすいのだ。
                  ある年の愉しみにしていたハロウィーンの時、彼が唯一、仮装の世界でこそ、堂々と自身の存在を「普通」が当たり前というリアリティから身を隠せるという意味で、彼がイキイキできる日だった。
                  その日、大腿骨を骨折した話が彼自身によって述べられている。
                  その時の彼の母の言葉が、あまりに深すぎて、以前、私は、すぐには理解できなかった。

                  彼の最も恐れていた不可抗力で骨折したとき、その痛みと苦痛で、
                  全身に汗が吹き出すほど流れ、痛みに喘ぐ彼に

                  彼の母は、こう言ったのだという。

                   「母は、じっと私の目を見つめて言いました。
                    『ショーン、これは人生のギフトだと思う?
                     それとも、重荷だと思う?』」

                  これに対し、彼は、それどころではない苦痛に耐え、
                  怒りとイライラで、母にこう言ったという。

                    「私は思いました
                     『何を言ってるだ?
                      ギフトは誕生日にもらうもので、開けて喜ぶものです。』」

                  と、いま痛みの中にいる当時のショーンからすれば、当然の言葉だろう。
                  だが、この母の言葉は、その後のショーンの人生を大きく変え、
                  彼は賢者として大規模な講演にも参加し成功者となっている。

                  私は、成功者には、ある一面で、共通した考え方を持っていることに気づいた。
                  それが、バシャールが見事に、示唆しているので、書いておきたい。

                  バシャール〜「愛の状態であること」
                  http://www.youtube.com/watch?v=bflsBQ7Evmg&feature=related

                  の中にあるメッセージだ。

                  この動画は、愛を得たいとする女性の相談者に答えるメッセージなのだが、
                  私が取り上げたいバシャールのメッセージは、愛という限定ではなしに、もっと
                  不変的な意味を持っていると感じており、前段の斎藤一人さん、ショーン・スティーブンソン氏のメッセージの根底にあるものとも、根っこで共通していると思っているので紹介したい。

                  バシャールのメッセージは、こうだ。

                     「あなたの現実をあるがままに受け入れるのです。
                      それがどんな状態であったとしても、それを最善のものとして
                      受け止めるのです。」
                        (バシャール:前出より)

                  という示唆だ。

                  この言葉と、やはり同様の意味を、ずっと以前に、ジョセフ・マーフィー博士は、
                  有名なメッセージを私たちに残している。

                     「すべての障害は、形を変えた祝福である。」

                  この言葉の障害とは、身体的な障害の狭義の意味でなく、私たちの状態や状況、環境などのすべてを困難などを含むべきだと捉えるべきだ。

                  今日のブログの結びに、
                  トランサーフィンからも、引用をさせていただきたい。
                  「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)の第3章にある

                  7つの鏡の基本法則の7番目だ。

                     「鏡のどんな反映もポジティブなものとして受け入れる。」
                        (前出:p222より)

                  この鏡とは、物質的な現実(リアリティ)を映し出しているという意味での反映を意味する。

                  冒頭、斎藤一人さんの言葉を挙げたが、
                  「幸せだな…」と思うことにするというのは、たとえ、いま、現実が、望まない形で、何が起きていようとも、そう思う心構えの大切さを伝えている。

                  ここにあげただけでも、ほんの一部だが、賢人たちは、表現の仕方は、それぞれ異なるが、現実の困難さとの向き合い方の態度で、皆、同じことを一様に述べている。いかに、その態度が、大切かだということだろう。
                  私たちとしては、何があっても「いま」を存分に愉しむ態度で望むことが、
                  成功への近道のようだ。

                   





                  posted by: fukugakuru358 | 015/苦境・困難 | 12:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  ☆一瞬で変化を起こす
                  0

                    本日は、念願だったことに関連した用事ができ、ほんの今まで、
                    長文の思いを伝えたメールを書いていたため、
                    いま時間に押されてこのブログを書いている。

                    今日のブログは、いつもとやや違うかもしれない。
                    また、タイトルどおりの私なりのありがたいことがあったので、
                    このタイトルに関連してこだわってみたい。

                    時間がないので、中途半端なものになるかもしれないが、
                    どうぞお許し願いたい。

                    ちょっと脇道を反れるが、昨日、夜遅く、自宅に帰るとすぐTVを付けた。
                    右膝がひどく痛く。原因は靴のせいだとわかっているので、その対処を今朝した。

                    その気力を失いかけていたとき、TVから美輪明宏さんの歌っている姿をチラッとみた。
                    ちょうど、リモコンを宛もなく、押していた時の一瞬で、美輪さんだと認識したあと、
                    指は、勢いでいくつかのチャンネルのボタンを押していた。で、
                    振り返り、美輪さんがどこに出ていたか、そのチャンネルは、もはやわからずに、
                    それから、数十分が過ぎた。
                    で、いくつかの用事をしているときだった。

                    美輪さんがゲストの番組が、深夜25:00amにやっていた。
                    今日のゲストは、美輪さんですと、稲垣吾郎の司会する番組に登場してくるところだった。
                    先ほど、見たのは、番宣(スポットCMのような番組紹介)だったのかもしれない。
                    このとき、ふと思った。だが、
                    美輪さんが、自分にとって、
                    何か、重要な意味があるように思えてならなかったのだ。

                    番組は、冒頭から終わりまでを見た。30分か1時間なのか、分からない。

                    ともかく、観てしまった。前述したように、
                    自分に投げかけられた意味が何かを知りたかったからだ。

                    美輪さんは、オーラーの泉の番組から特に、
                    比較的に美輪さんについて気にするファン(好きな芸能人という意味で)になった。

                    結局、番組から自分の何か意味があるような感覚について、気づきはなかった。
                    そして、その後、
                    未明遅くに寝たが、寝られず、朝の5時過ぎの番組を観ていた。
                    と、また美輪さんが登場してきたのだ。

                    何か、視聴者からの相談にのる番組だった。
                    その相談というのは、ヘビースモーカーの主婦が、子育てに影響があるので、
                    タバコを止めたいとする相談で。
                    諭すように、美輪さん自身の経験を交えて、相談に答えていた。

                    私は、やはり美輪さんから感じなければいけないメッセージを受けているようだと、
                    ここでも感じた。だが、わからない。結局、分からなかった。

                    だが、これには、きっと意味があると思っている。
                    美輪さんは、そう番組にあちこち出ている方ではないし、その意味で、
                    短時間で、こんなに見かけることは、やはり感じるものがある。

                    これは、ほんとに余談ではあるが、
                    ただ今日書くブログにも、恐らく何か関係しているように思えてならなかったのだ。
                    しかし、どう関係しているのかは、正直、分からない。
                    でも、無縁ではないことを、記述しておこう。
                    いつしか、この気づきは、わかるかもしれないので。

                    で、私が感銘を受けたのは、
                    「誰でもできるけれど、ごくわずかな人しか実行していない成功法則」
                    (ジム・ドノヴァン[著] 桜田 直美[訳] Discover)の項目の《24 一瞬で変化を起こす》だった。

                    私の今日のブログでは、おそらく情緒的なことしかかけない気がする。

                    この項目を読んで、胸にグッときたので、皆さんにお知らせしておきたかった。

                    この項目の冒頭が、すべてを表している。

                      「すべての変化の前には決定がある。変えると決心すれば、その瞬間から人生の
                       方向を変えることができる。」
                     (前出より)

                    とある。
                    ジム・ドノヴァン氏によれば、いまの成功の前に、一度は、どん底を舐めたという記載が、この項目の中で語られている。

                      「本書の初めに、私は自分の体験を書いた。貧困のどん底まで落ち込み、
                       人生が底を打った様子をみなさんにお伝えした。」  
                    (前出より)

                    とある。

                    そのどん底ぶりは、たしかに、初めににある。

                      「私の人生はまさに破滅してしまった。私はトイレ共同の小さなアパートに住んでいた。
                       場所はサウス・ブロンクス、ニューヨークの中でも特別に治安の悪い地域だ。
                       それにあのゴキブリ。今でもうなされる。」 
                     (前出より)

                    と、その壮絶ぶりが語られている。
                    注目すべきは、
                    どん底生活について、著者は、次のような実感を抱いていることだ。

                      「人生は知らないうちに少しずつ悪くなっていき、どん底まで落ちて始めて
                       そのことに気づく」 
                     (前出より)

                    とある。さらに、
                    どん底に著者が根をあげ、次のように記述したところで、
                    私は、胸が熱くなった。今日のブログは、これだけでもいい。これだけをお伝えするので、
                    いいと感じたので、その心の声に従わさせていただく。

                    著者が惨めさのなかで以下のように声をあげたのだ。

                      「私は天井に向かって手を伸ばし、神にこう言った。『もうだめです!助けてください。
                       そうでなければ殺してください。こんな生活は耐えられません。』その瞬間を境に、
                       私の人生は変化した。私の中の何かが変わったのだ。」 
                     (前出より)

                    と述べている。

                    冒頭、美輪さんのことを、自分に何かを伝えようとしているサインを感じると書いた。
                    だが、そのサインはわからない。

                    でも、いまジム・ドノヴァン氏のことを書きながら、思い出していたことがある。
                    美輪さんも壮絶な過去があるということ。大昔になるが、ビッグトゥモローというプラス思考の月間誌があって、そのとき、美輪さんのインタビューがその中にあったのを想い出した。

                    特に、美輪さんのその時の言葉をいまでも、よく覚えているのだ。

                      「いづれこんな暮らしから抜け出られるって、そう思ってたのよ。」
                                                (美輪さんの言葉より)    

                    という言葉だ。

                    美輪さんから投げかけられているサインは、わからないが、ジム・ドノヴァン氏や美輪さんには、壮絶などん底体験がある。その意味でも、決して、私の何か分からない勘は、いま分からないが、やはり意味が、必ずあるものと思っている。

                    いつか分かれば、そのとき、書いてみよう。

                    どん底から再生したジム・ドノヴァン氏の言葉が、印象的だ。

                      「成長の余地は常にあるのだから。」  (前出より)

                    だ。

                    私たちは、どんなときも、それでも、諦めるべきではないな…と。
                     

                     

                    posted by: fukugakuru358 | 015/苦境・困難 | 14:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    ☆あえて水をさすようなこと
                    0

                      水を差すようなことを言って申し訳ないが。
                      マスコミで流される報道を観ていると、
                      あまりにも日本はバカ騒ぎしすぎなのではないだろうか。
                      ロンドン五輪に、日本中が、まるで日本が主催国で、自国で行われているかのように、
                      TVで連日報道がなされている。それも、いまに始まったことではないが。

                      なでしこジャパンが、決勝進出を果たした日、それは、喜ばしいことだが。
                      奇妙としか言いようのない風景を観た。
                      渋谷駅前の交差点で見ず知らずの行きずりの若者たちが決勝進出を祝い、
                      まだ未明に浮かれの興に乗りハイタッチで乱舞する姿をニュースで見せられた。
                      TPOからすれば、異様としか思えない。

                      また総じて、どの種目のどの選手たちもそうだが。多くの場合、
                      選手は選手で、
                      「『金』しか欲しくない」ようなことをインタビューで答える。
                      ロンドン五輪に限ったことではないが。
                      開会日のとき、数人程度しか参加できない国があったことを、
                      多少なりとも観た人も多いだろう。国の名前さえ、こんな国もあるのかと、
                      改めて思うこともあっただろう。
                      所詮、参加できただけでもいいというその国力しか持ち合わせない国もあることを、
                      私たちのバカ騒ぎにふと慎みを抱かなければならないと思わされる。

                      そのバカ騒ぎ報道の裏で、あえて言わないが。
                      世界では、いろんな不幸も起きている。

                      3.11の時は、日本中が必要以上に、妙に形式的なおもいやりや配慮で自粛をし、
                      景気を落とし、不幸を倍加した罪悪感はないらしい。
                      結果、3.11で一番弱ったところに、その不幸を間接的に連鎖を還元したことすら、
                      見ていないか、気づかないで、平然とやり過ごしているのだ。

                      もしあの嘘くさい思いやりによる配慮の自粛心があるのなら、
                      いま世界で起きている不幸を思いやり、
                      マスコミを軸にした五輪でバカ騒ぎするのは、いい加減、自粛し控えて欲しいものだ。
                      といっても、
                      控えることなんてできないだろう。

                      それは、いかにも3.11の自粛が、自分のいまの立場だけを守ることに異常に固執するあまり、過剰に世間からの批判を恐れるものたちによる意図して創られたインチキなものかをよく表しているのだ。
                      ロンドン五輪の影で、国内でも、政局がお粗末な山場を迎えている。どちらにせよ。
                      結局、呆れるばかりで、ただロクな結果にはならならいだろうが。
                      五輪報道にそのニュースだけでなく、大方の重要なニュースは完全に片隅に追いやれている。
                      はっきり言うが、
                      五輪の選手が金を獲ろうが、獲るまいが、
                      私たちの生活には、全く関係ない。あくまでも選手個人のものだ。
                      皮肉ぽく言えば、多くの場合は、スポンサーまで付いていて(付いていない選手もいるだろうが)、それなりに、生活保証までされている選手たちの華やかな履歴の上書きの問題に過ぎない。いくら支えてくれた人のみんなのおかげですと、涙ながらに感謝の弁を述べようが、
                      私たち自身の、私たち自身がいま抱えている問題にとっては、それは、まるで関係ない。

                      俄かな愛国心に発揚され浮かされ踊っている間に、
                      ほんとは、私たちの生活に深刻で重大な問題に関わることが、目の前にあり、
                      ロクでもないことになっていることに、大いに注視しないといけないのだ。

                      浮かれすぎには、私たちは、もっと賢明にならなければいけない。

                      今日は、私の周辺や世界の国々でTVで観て、止まぬトラブルを思い少し感情的なことを記述させていただいた。

                      私は、私で望まないことにフォーカスしたことを、今少し悔いている。

                      posted by: fukugakuru358 | 015/苦境・困難 | 13:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |