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☆ミルキー・チョコのような夜
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    新年2日の夕刻の事。大手スーパーで、明治ハイ・ミルクチョコレートを買った。
    赤いラベルの板チョコだ。ミルキーでマイルドな味を欲していたのだ。
    いつもなら、アーモンド入りのチョコを買うのに、
    このときは、ちょっとした気分が違った。
    夜遅い時間になって、ふと、忘れていたチョコの事を思い出して食べた。
    ほんの少し前、大切に思う友人からメールがあって、
    もう少し起きていようという気分もあったからだ。
    普段なら、寝る時間も迫ってきていたので、何かを食べたりすることは、
    まずない。

    ミルキーなチョコを味わいながら、ふと、半年前の事を思い出していた。

    それは、別な知人から、突然、連絡があり、
    撮影を手伝ってくれる誰かを知らないか?という
    内容の電話だった。6月初旬の頃のことだ。

    その電話を受け、私には、少し躊躇があった。
    このブログで、何度か書いたように、私は、映像の仕事をしていた。
    いわゆるディレクターだったからだ。
    撮影の仕事依頼は、もう何年も前からなく。その状況から、
    自分にそうした仕事が来ることは、もう全く期待できなかったし、
    あきらめてもいた。
    事実、今の私は、生きるために、ネット頼みで、業種も変えている。
    簡単な学習教材のネット販売をし、午前中は、パートの仕事もしながら、
    なんとかやって来ている身だ。

    そうは思いつつも、その友人に、恐る恐る、しかしそれを悟られないよう。
    「アレー?ほんの少し前まで撮影の仕事しているって、
    言わなかったけ?」と、やや強気になって、
    自分を売り込んだ。

    その後、話はとんとん拍子に進んだ。

    撮影というのは、簡単に言えば、オンライン学習教材の撮影だった。
    大量にコンテンツが必要になることを思えば、
    ヤリガイはあると思ってもいた。しかも、

    電話をくれた友人の彼は、私のネット通販をするきっかけを作ってくれた、
    ある意味、恩人だ。

    今度も、きっと何か。
    運が、そんな転機を持ち込んできてくれたんだと、
    そう安易に結びつけたとしても、
    誰にも、一定の理解はしていただけるだろう。

    しかし、
    事の顛末は、こちらの甘い期待と思いとは、大いに異なった。
    まず決定的に予算がないこと。
    撮影の業界で、いや広告業界が特にそうだが。
    一番多いのが、予算がまるでないのに、口はどんどん出すという。
    結局、ロクな結論も出せずに、グダグダになるパターンだ。

    それが、まるで画に描いたように、この時の主流の縛りになった。
    企画意図は良かったのが。
    何をするか、何が大事かの方針が一切定まってなく。
    撮影のイロハを全く知らない企業のシロウトの上層部連中によって、
    ちぐはぐな要求ばかりが際立つ中、妙な野心たっぷりに、無茶ぶりをしてきた。
    結局、船頭ばかりが増え、わけの分からないものになった。

    私は、踊る会議には、参加することはなかったが、参加も求められずだった。
    だが、
    この仕事を紹介してくれた友人からの言葉ですべてが、読み取れた。

    そして、私は、私のスタンスは変えず、
    企画意図の初心に帰るべきだと、友人に伝えるが、
    所詮、彼は、契約社員で。しかも、彼には、これまで売上もなかった。
    従って、説得力もない。力がない。

    少なからず私が担当した分は、一定の形には、なったが。
    疲労感だけが残った。

    これ以上は、このブログに書くことでもない下世話な行き違いの話で、
    今日のブログのテーマではない。ただ一定の経緯を示さないと、
    私のブログの意味が理解できないので、さわりを紹介した。

    話を戻そう。

    ともかく彼のおかげで、私は撮影に臨むことになった。
    6月の中旬だった。

    カメラマンは、私の以前、コンビを組んでいた仲間だ。

    撮影前日、私は、吐き気と胸苦しさに苦しんだ。
    その日、ある駅前のスーパーで、有名メーカーのドラ焼きを食べた。
    ビニールに密封されて日付も問題なかったし、
    封を破り、少し妙だなと思う瞬間があったが。気にせずに食べた。
    そして夕方、腹痛と、吐き気に苦しんだ。明日は撮影があるのに、
    「大丈夫だろうか…。」
    気持が悪いが、寝付けない。とうとう朝まで、寝られず。
    撮影場所に向かった。まだ吐きたい気分がある。

    中野新橋という駅まで、何とか辿り着いた。眠い上に、吐き気がある。
    休みたいが、休めない。

    スタジオで、彼に挨拶をし、事情を説明したが。どら焼きというのが、
    説得力がない。やがて懐かしいカメラマンも来た。
    彼にも、事情を話すが本気にされなかった。

    撮影は、思ったよりはるかに順調だった。

    ただ夕方になると、私の眠気は、いよいよ高まって。
    収録の最中に、寝てしまうという失態もあった。

    「ヨーイ!スタート」の掛け声をかけても、
    「カット」の声を出さないので、カメラマンから、促されて起された。
    いくら体調不良とはいえ、ほんとに恥ずかしい失態だった。

    どうにか、撮影が時間内でほぼ順調に終わった。
    ほぼ順調…もちろん撮影中に寝てしまうという失態がなければという意味だが。

    機材を撤収し、各々帰途に着いた。

    私は、食欲もなく、眠く、気怠い状態のまま、新宿駅に着いた。
    そこまで一緒だったスタッフとも別れ、一人、駅構内周辺を歩き回った。
    どこをどう行けばいいのか。
    すっかり様子の変わった新宿駅は迷路のようだ。
    フラフラになりながら、大江戸線の掲示板を見つけた。
    「あーッ!あれで帰ろう…」

    矢印を頼りに、何とか、大江戸線に乗ることができた。
    そこから、しばらく不思議な感覚があった。
    これが、今日、ブログに書きたかった一番のテーマなのだ。

    おそらく時間は夜の10時半を回っていた頃だ。
    電車は比較的すいており、私の車両には、数人しかいなかった。
    楽に座れた。
    体調は、依然として悪い。眠気で、ふわふわした感じだった。
    トローンとした意識の中で、今日この日は、どこか充実感があった。
    懐かしい感覚が蘇ったのだ。

    撮影業界に入って3年目ぐらいの何とかやっていけそうな。
    好きな業界に入った誇りある感覚と甘美な思いに包まれていた。

    なぜか電車の音が聞こえない。静かな時間が流れる。無音な感覚で。
    そのまま、
    どうやら「六本木駅」に着いた。
    「えー、六本木だって?(なんで…)」
    大江戸線が、六本木を通っていることを知らなかったのだ。
    駅に、今どきの女性が二人が、椅子に並んで座っているのが見えた。
    彼らは乗り込んで来ない。まるでマネキンのように、二人黙って座っている。
    シュールな感覚を覚えた。
    同時に、「六本木」というキーワードで、
    誰にでもありそうなバカ騒ぎしていたころが、脳裏に浮かぶ。

    何かが足りていないという思いの中で、野心に燃えていた。
    そんな時代の空回りばかりの意欲が、ただ懐かしく心の中でざわめく。

    ウトウトしていたのだろうか。やっと、浜松町の駅に着いた。
    地下深いところから、地上に出たとき、外は、ひとしきりの雨。
    傘などない。天空を見上げると、高層ビルの窓のあかりが、眩い。
    夜の底を照らす灯が美しい。
    懐かしいあの頃の切なくそれでいて甘美な気分と、
    クリスタルな光の乱舞の中で、
    今日という日は、なんと素敵な一日だったのだなと感謝した。
    私は、大江戸線の中で、ほんの数分間、
    きっとあの時代のパラレルな世界にシフトしていたのかもしれない。

    ミルキーなチョコの口どけの中で、ふとその思いを巡らせていた。

     

     

     

     

     

    posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 13:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    ☆タイムラインの現象を体験しているのかもしれない
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      久しぶりに旧友にあった。
      何年ぶりだろうと計算すると、7−8年らしい。
      疎遠になって久しいいまでは、当時、何があったのかをすっかり忘れ、覚えていないが、
      ちょっと余計なことを口走ったのかもしれない。自分の方が年上であったこともあり、
      言い方として、悪意はなくても、少なからず、
      彼にはやや不快に感じたほどの表現で追いつめたのかもしれない。

      そんなことがあったのかも…と、どう差し引いても、
      自分に少しばかり非があるような違和感だけは残っている。
      その後、彼の連絡は途絶えたのだから。

      もう連絡はないだろうと思っていた。

      そんなところへ、
      2週間ほど前、電話があった。

      「おぉー…!」と応えた。それ以上の言葉がすぐには出ない。
      「いまは、どこで仕事してるんですか」と尋ねた。

      よく聞き取れない回答があって、
      「ふーん…」とだけ応答した。

      双方で、チグハグな近況の話を、小指の爪の先ほどした。

      彼には、以前フリーでいたころ、仕事をもらっていた関係で、どこか丁寧な口調になる。

      加えて、
      「何故、電話してきたの」か、などということは、一切、訊かない。
      何事もなかったかのような振る舞いをした。

      ともかく、「近いうち、呑もうよ。新橋あたりで」ということで、
      男の社交辞令のように電話を打ち切った。

      「まぁ、当面、連絡はないだろう」と思ったのだが。

      そして、再び一週間ほどで、また先方から連絡がきた。

      「電話しましたか?」と言うので。
      「いや。してないけど…」と返した。

      二言、三言、さし障りのない会話で、終わって。こちらとしては、
      「そう遠くない時期に、また呑みましょう…」と言って、会話を終えた。

      それから、また一週間ほどで連絡があった。「おぉー…!」と、また電話で応えた。
      今度は、彼の口が滑らかだった。「3年ほど前に、結婚した」とまで、自分で報告してきた。

      「えぇっ?そうなの…!」と云った。

      それ以上に、立ち入らずに言葉を濁した。会話が少しあって、
      「ま、そのうち呑もうよう」と言って、電話を終えるつもりだったが、
      「土曜なら」と先手を打たれ、結局、翌日、呑むことになった。

      指定の待ち合わせ場所で、彼にすぐ気付いた。
      まず、髪型が変わった。角刈りに変身している。体型は、変わっていない。
      以前のように、90キロ以上の体型を維持している。顔は丸い。顎と首周りの太さが一緒だ。
      会ってすぐに、「なぜ、角刈りにしたんだろう」かと思った。だが、理由は、訊かなかった。

      「コンタクトにしたの?」
      センスの悪かった眼鏡も辞めたらしい。
      「えぇ、はい。でも、度がね」というような返事だった。

      居酒屋に着く前の会話で、
      彼に、振り向いて、さすがに「少し老けたね。」とまた私が余計なことを言った。
      「そりゃあ、45(才)ですから」という。
      「あれ…。前、28(才)だって言ってなかった」「いつの話ですか、それ!」と突っ込まれた。
      最後に会ったときから、少し年月が経つが、それでも30代半ばぐらいのはずだと錯覚していた。
      居酒屋に入ってからも、その話になり、28(才)だと、言ったのは、ある教育紙の新聞社にいたときの
      ことだったと弁明していた。

      それにしても私は、
      ひどい思い違いをしていたものだ。

      余談だが、
      店に入る前に、私は、彼のメガネを外した顔を振り返って見たとき、
      誰かに似ているなと思ったが、それが誰か?すぐに思い出せずにいた。
      そのことが、なぜか、引っかかった。
      しかし、
      話が盛り上がった後半に、ようやく思い出したのだ。それが誰かが。
      元外務省出身で作家の佐藤優氏の風貌によく似ていると気付いた。
      彼にそれを言ったが、本人が佐藤氏を知っているかどうかは分からない。

      私の最大の関心は、彼が、相応の年月で齢を重ねていたこと、それが、
      明らかに見た目でも老けていたこと。自分の思い違いとのギャップもあったことだ。
      もちろん、同様に私も老けたのだろうが。

      ただ彼の風貌として、角刈りだったことは、想定外だった。さらに「結婚」までしていたこと。
      彼には、このブログは知られたくないが、正直、彼は、生涯、結婚できないタイプの側だと
      思っていた。この世の中の仕組みには、何かしら不思議で。
      簡単な割り算が通用しないらしいと思った。

      ともかく、彼の身の上を聞いた私は、表面上は、あまり驚いたそぶりは見せなかったものの、
      感じるものが充分にあった。そのことを久しぶりに、このブログに記述しておきたいと思った。

      しかし前段があまりに冗長に過ぎたが、自分の感じたことがその情緒の部分によって引き起こされたわけで、
      どうしても、そこを伝える必要があると判断し、説明的に記させていただいた。

      いま少し我慢して読み続けていただきたい。

      ここからが、本題だ。手短に纏めたいと思っている。

      バシャール〜『無時間のセオリー』
      https://www.youtube.com/watch?v=NnEunvlFRuI

      の一部を引用したい。

      バシャール:
        「もし、全てのことが『今』に存在しているのなら、あなた方が過去と言っているもの、
         未来と言っているものすべては『今』という時の違った呼び名であって
         呼び名の違いこそあれ すべては『今』に存在しているのです。
         『今』の捉え方の違いと考えみてください。
         あなた方の言い伝えにあるように、『決まりきったもの』は何もないのです。
         どうにでも捉えられるのです。ただ存在しているだけなのです。
         あなたはあなたが発するエネルギー通りのことを体験しているのです。」

      これはバシャールが、私たちが体験する現実世界は、パラレルな無限の世界を、
      私たちの意識がフォーカスする現実に併せて、シフティングしていることを述べたものだ。
      その体験する現実そのものが、タイムラインの一つ一つで。

      バシャールは、続けて、次のように言う。
        「でも、それを直線的に捉えているのです。あなた方は直線的な体験を
           創造しているのです。つまり繋がった連続的なものを創造しているのです。
           あなた方は、同時に存在している現実に過去とか未来とか便宜上名をつけて
           呼んでいるのです。」

      と示唆する。

      私の見た彼は、
      過去と未来という直線的な一本の時間軸(タイムライン)の中で、
      意識が、過去を織り込んで創造した存在(イメージの産物)なのだなと思いが至った。

      私の意識の深い、実に深い底で、自分の直線的な時間へのシュミレーション的な思い込みとして、
      それにマッチングして、老けた彼を、登場させたのだ。

      そして、タイムラインの想定以上の大幅なシフティングよって、
      いまこの瞬間に行き着いた先のタイムライン上では、
      坊ちゃん、坊ちゃんした髪型から、彼は、角刈りでなければならなかったのだ。
      そればかりではない。メガネをはずし、コンタクトをし、結婚をしていたというオマケまで加筆されて。
      彼についての私のシナリオが書き換えられていたのだ。
      それは、本来、私の想像の延長線上では、つまり、過去と未来という直線的な一本の時間軸では、
      起こり得ないはずの想定が、彼の現在の姿を通じて示されたのだなとつくづく思った。
      文字通り、シフティングしたのだなと感じたのだ。


       

      posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 17:11 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
      ☆寝覚めの悪い夢
      0

        嫌な夢を見た。

        一言で云えば、実際にあり得るという意味で、怖い夢を見た。
        すでに数日が経つのに、いまでもしっかり覚えている。

        怖いといっても、霊的な、あるいはオカルト的な夢のような怖さではない。

        今日のブログでは、
        その夢の、その夢が何だったのか、について書いてみたい。

        物理的現実の私にとって、
        いまの私の習慣として、夜遅く呑み歩くことは、ほとんどないが。
        数年前までは、少しばかり遊び歩いていたことがあった。

        私の見た夢というのは、
        その友人らと、いま現在も呑み歩いているというような設定の錯覚の夢だった。

        私は、何らかの理由で知り合った友人と語り合いながら歩いている。
        夢中になって話をしていた。

        そして、私が長い間、よく呑み歩いた古くからの友人が、私たち二人にやや遅れて後方を、
        5メートルくらい離れて、フラフラ歩いているという夢だった。

        私はその友人をチラ見しながら、ちゃんと私たちの後を付いてきているか気配りしながら、
        新たに知り合った友人と熱心に話をしている。

        場所は、有楽町か新橋のようなところで、安い居酒屋で呑み終えて、そのまま、
        ふらふらと浜松町付近までを歩いている設定だ。
        しかし、夢の中のそこは、現実のその地域ではまったくなく、風景も実際には、
        夢に見ているような場所はない。夢の中だけで、ただそのあたりにいると信じ込んでいるだけだった。
        表通りではなく、一本内側の暗い道を、私たち3人が、やや千鳥足を楽しみながら、
        いい気分で歩いていた。

        私の右傍らには、夢の中で友人になった人物が居る。彼の顔の上あたりには、
        高速道路のような高架がある。
        それを感じつつ、ちょっとした4辻を歩いていた。

        裏路地といっても、ところどころに、ポツンと赤ちょうちんも見える。
        そんな時だ。
        私は、妙な人物たちを数人見かけた。私の傍らの友人は、
        私にいろいろと話しかけているので、
        おそらくその人物たちについては、当初、気づいていなかったはずだ。

        私は、その不審な人物たちを、何となく違和感のある風景の一部のように、
        ただ感じていただけなので、それほど注視していたわけではなかった。

        で、彼らのほぼ傍を通り過ぎる時、ただならぬものを見た。
        つまり、平凡な私たちには、あってはならない独特の世界に出くわしたように思った。

        女が、半裸のままで色白の美しい背中をこちらに見せていたのだ。
        華奢ながら、腰のくびれが、あまりにもなまめかしい稜線を描いている。

        腰のあたりには、半裸になるために脱ぎかけた赤い色味の着物か何かが、
        纏わりついている。
        女性は、両膝を折って、足のかかとに形のいい尻を載せているような格好だった。
        姿勢は凛としている。
        それを見ただけで、この女性は、
        並々ならぬ美しい女なのだろうと、すぐに想像した。女は、おそらく20代半ば。
        横顔がチラッと見えた。鼻筋も通っている。髪はアップにして、襟足をきれいに整えている。
        これから起きることを
        すでに同意済みで、ここにいるようだ。

        すべてをわきまえた美人だ。

        こんな場所で、女が半裸を晒している姿は、どう見てもおかしい。
        それを分別するより、もっと前に、
        もはや取り返しのつかない場面に出くわしたと感じたのは、
        この女性の前にいる男のせいだった。

        ひと目で、その筋の男とわかる男が、
        暖簾も提灯もあえて外した居酒屋とわかる店の前で、
        店の中の誰かに、何かを吟じているのだ。

        店からは単調な光が漏れている。しかし、その筋の男は、閉じられた店の前に立ち、
        しきりに中にいるらしい人物たちに、何かを訴えるように吟じている。
        この男女のほかには、やはり飛び抜けた美しい二人の女たちが、膝まづいて、
        男の唄に厳粛に聞き入っていた。

        私は、唄の内容は、正確にはわからなかったが、その状況は、なんとなく察したのだ。

        店の中にいる人物は、どうやらその筋の世界の大物で、この女たちは、
        その大物のための一夜の宛がいぶちとして、連れてこられたらしいということを悟った。
        当然、それなりの大きなお金が動いているのだろうということも女たちを見てそう感じた。

        店の中からは、一切声が漏れてこない。吟じる男の声だけが、声高に、佳境に入った頃、
        そのもっとも美しい半裸の女が、ついに全裸になって、男と並ぶように、店の前に向かって立った。

        私は、とんでもない場面に今いることに、ゾッとした。

        「ヤバい…。」独りごちた。

        私のそばにいる友人も、すでに状況は悟ったようだ。だが、私は、なぜこんなところで、
        こんな人物たちがいるのかを考えるよりも、いまこの状況が、
        私たちのこれから数分後の消息に関わることを直感して、
        まったく何も気づいていないただの酔っ払いの通りすがりを演じつつ、
        その場をさり気なく通り抜けた。

        そして、近くに路地が見えたあたりで、友人ともに、ただ走り出した。
        だが、私は、すぐに異変に気付いた。
        私たちの後ろにいた長年の私の友人が、付いてきていない。

        「うわぁ−、まずい…。」

        私は、この場の異様な人物たちと争える状況でないことをすぐに察して、
        逃げることを優先した。それしかなかった。

        その刹那、先ほどのその筋ののぶとい声が、私たちを捕まえろという声が、
        後ろから聞こえた。もう躊躇はできない。逃げるが勝ちだ。

        そして、一方で、
        長年の友人は、すでに捕まっただろうとも思った。
        どうしようもない。相手が悪すぎる。

        私たち二人は、せめて細い路地を、いろいろ曲がりくねって切り抜けて、
        どんどん逃げた。
        長く感じた数分後、追っ手は、ほぼ撒けたらしいと思った。

        しかし、友人が捕まっているとするなら、いずれ私たちの情報も知れるだろうと思った。
        どう転んでも、「まずい!」ことになった。

        不安と恐怖に駆られた。このとき私の意識は、夢から目覚めつつ、ほぼ半睡になりかけていた。
        それほど怖かったのだ。しかし、夢と感じる余裕はなく、
        ひたすらこの状況から逃れたいと思っていた。

        そのウトウトした意識の中でも私は、なぜ私たちは、このような場面に出くわす前に、
        ちょっとした妙な空気感に気づかなかったのだろうと思った。
        普通なら、この儀式めいたこと行っているこのような場所に一般人が近づけないように、
        それなりの男たちが、居るはずだろうにと。
        なぜ、そこを意図せず潜り抜けてしまったのか。運、不運についても考えてしまった。

        そんなことを考えつつ、夢から目覚めた。

        目が覚めたとはいえ、あまりにリアルな夢で。
        こんなことは、どこかにあり得そうなので、うっかりそんな場面に出くわしたらと、
        思わずゾッとした。ただただ後味の悪い夢で、怖いと思うしかなかった。
        男たちに追われたことが、特に怖かった。

        起きてからも、しばらくこの夢のことを考えていた。
        この夢は一体何だったのだろうか…ということを考えた。
        決して、夢の心理分析をしたいのではない。そんな気分にはなれなかった。

        むしろ、ある理解が、私の気分を暗くした。

        この妙な光景、恐ろしいほどにリアルさを湛えていたこと。
        そのディテールの一つ一つが、私にとって、後味の悪さを残した。

        そして、私の心の深い部分で、沸々としてある種の理解が、
        私に気づきを促していると感じた。

        私の見解を言わせていただこう。
        この体験は、パラレルな別次元での私の身に起きていた事実なのではないかと、
        ふと思った。
        私は、物質的な眠りの中で、私が、日常と思って、フォーカスしている現実のラインの一部で、
        別次元の私のラインがたまたま接点を持ちクロスした。そういうことなのだろうと理解した。

        私の後味が悪かった最大の理由は、
        これも別次元の私がいま体験しているリアリティの一部なのだうろなと
        そう思ったことだ。

         

         

        posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 09:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        ☆の・ようなもの。(セパレート・リアリティ part2)
        0

          前回のブログの続きだ。
          【ここはガッチマンのあれだ】氏のYouTubeにおける実況形式の動画

          【実況】P.T.(サイレントヒル)がめっちゃ怖かった
          https://www.youtube.com/watch?v=nDSSFUJbXdg

          から、気づきを得られたというあたりを記述したい。

          この 「P.T.(サイレントヒル)」の怖さの要因は、
          一切の情報がないままに、底知れぬ恐怖にさらされ、しかも
          そこから抜け出せないで、それも際限のなく続くループによる怖さなのだ。
          つまり次に何が起こるか分からない心理的に追い込まれる怖さが際立っているのだ。

          だが、このループという現象そのものは、前回のブログにも、例として書かかせていただいたが、
          私たちが日常を繰り返し重ねる「日々=毎日」と似ている。

          私は、この「P.T.(サイレントヒル)」のストーリーの展開の中から、
          それをまず先に感じた。

          私の考えたことは、私たちは、日々を無意識に、「昨日(きのう)」とほぼ同じような段取りや行動、またはスケジュールをこなしながら。ときには、若干、別の飛び込みの予定も加わったりするが。それでも、印象としては、昨日も今日も世界が、まるで変わったようには、
          感じることがない。だとしても、
          わずかな違いのあるパラレルな世界を、実は、私たちはシフティングしている。

          そして、基本的には、
          パラレルな世界をシフティングしているという認識を持っていないだろう。

          私たちの物理的な現実世界には、
          時間があって、シフティングの産物として時間が過ぎていく。
          その意味において、
          過去があり、現在があり、未来があると、
          それを私たちは、直線的に時間が過ぎているというように受容している。

          このことについては、
          仮に、時間が直線的に過ぎているように理解していたとしても、
          バシャールは、それは、すべて幻想だと指摘する。

          過去も、未来もない。
          あるのは、ただ、今(現在)が、「ここ」が、あるのみで。

          すべては、同時に「ここ」にあると述べている。そこへの理解があるとき、
          パラレルな概念を生み出す。

          ここまで記述してきて、以下、あらぬ方向へ展開してしまうので、
          何度か書き直した。どんどん話が大きく拡がってテーマから離れていくので、
          意図的に戻させてたいただこうと思う。

          ****************

          この「P.T.(サイレントヒル)」は、私にとって、束の間の恐怖心を喚起させられたが、
          一方で、パラレル・リアリティについて、改めて意識させられた。

          特に、キッカケとなったのが、

          ゲーム開始の冒頭画面に、おどろおどろしく
          以下の英語の字幕が現れるところだ。
          その日本語訳は、

            「気をつけろ、そのドアの隙間は
             分断された現実(セパレート・リアリティ)だ。」
               
          (【実況】P.T.(サイレントヒル)がめっちゃ怖かった
                https://www.youtube.com/watch?v=nDSSFUJbXdg より)


          だった。

          私の印象は、「セパレート」という言葉で、一つの人生ライン上の枝派的なことを
          イメージしたが、
          恐らくゲーム作成者には、パラレルという概念を受容するまでの理解は、
          そもそもなく、後付けで、「セパレート・リアリティ」と表現したものだろうと思う。
          つまり、
          もし直線的に感じられる人生の時間軸が、あるとき、思わぬカタチで、
          セパレートして、そこから脱落していく恐怖心をイメージさせるために煽ったものの
          ように思えてきた。

          多分そうなのだろうと思う。

          そう思うのには、一定の根拠もある。

          同じ、ストーリー上の字幕に裏打ちされているからだ。

             「俺なのは俺だけだ。
              お前なのはお前だけか?」
                
          (【実況】P.T.(サイレントヒル)がめっちゃ怖かった 
                          https://www.youtube.com/watch?v=nDSSFUJbXdg より)

          ストーリー上のメッセージとしては、大変面白く興味を惹いたが、
          この言葉の根源的なところには、onenessの理解はないように思えた。

          私自身が、一見、難解なメッセージを装ったこの言葉の出来ばえで、
          直後のまだ充分に咀嚼仕切れていないうちに受けた印象を語ったが、
          時間が経ち、いまさまざまな分析を行っていくうちに、私なりの整理がついてきた。

          ゲーム作成者には、ストーリーを展開させる上で、
          仮定でパラレルな世界をイメージしてみただけのようだ。
          だが、一定の気づき、あるいはパラレルな世界観に一定の関心はあるのかもしれない。

          つべこべと難しいことを書いてきたが、
          以下の引用をしておきたい。

          私たちが、「いわゆる世界」についてを理解する上での重要な視点だと思うので。

            「大昔から人々は、世界が二通りのふるまいをすることに注意を払ってきた。
             一方では、あらゆる出来事が自然科学の観点から物質的に多少とも
                理解できるものであるのだが、他方では波動エネルギー的な神秘現象に
                遭遇すると、自然科学の法則が当てはまらなくなる。なぜリアリティの
                さまざまな現象をひとつの知識体系にまとめることができなのだろうか。」

               (「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著]
                  ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)
                 《現実は、二つの側面をもつ二元鏡》p117より)

          本日の取り留めもないブログを終えるにあたって、
          率直に申し上げおきたい。

          「P.T.(サイレントヒル)」のPS4のための体験版は、
          いわゆる体験版のようだが。それでも、あまりに怖すぎて、おもしろい。
               
          それが率直な意見だ。





          posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          ☆奇妙な動画
          0

            一昨日、私の最も信頼している大切な友人より電話をいただいた。
            話の中で、充分な説明ができなかったことに絡んで、このブログを書いてみようと思った。
            私は、友人に次のように言った。

             「津留晃一の言っていることだけど、(私たちの)エゴは、(大いなる自分)宇宙意識を
              理解できないと言っている。」というようなことを述べた。
              そっくりそのままの言い方ではではないが、ほぼそのように述べたように思う。

            その元となっているのが、故・津留晃一氏のWebサイトに掲載されているメッセージ集の中の一つ、
            「変化」の中の言葉だ。

               ”ようこそ 津留晃一の世界へ”
                 メッセージ集「変化」より
                  http://www1.ttcn.ne.jp/turu/16henka.htm

               「あなたという存在は、エゴと、ハイヤーセルフという2つの意識によって
                構成されていると考えると解りやすいかも知れません。
                潜在意識と呼ばれているハイヤーセルフと、表面意識と呼ばれている
                エゴの2人で自分だと思ってみて下さい。

                潜在意識をこれまで人は理解しようとしてきましたが、エゴの頭脳で
                理解できるものではありません。
                     エゴに理解できないのが潜在意識なのです。」

            私たちに内在する無限のパワーをもつ意識(宇宙意識)は、各個人の潜在意識が、即、宇宙意識であり、その入り口ともなっていると理解している私は、津留さんのこのメッセージの指摘を受けて、より理解を深めさせてもらった。

            もとより、
            私たちの(顕在)意識は、所詮、限界がある。
            しかし、私たちは、
            人生を通じて、日々、ここで、感じ、思い、考えるために、
            文字通り、すべてであるかのように思い込み、すべてに優先しているかのような錯覚の中で
            生きることに仕向けられ、慣らされていることにすら気づいていない。

            だとするなら、それは、幻想にすぎない。

            意識そのものは、3Dの物理次元の外的世界を五感を通じて、制限だらけのこの物理的現実を「体験」して生きるための、あるいは理解し、認識、合理的な解釈をするためのそういう側面を機能的に受け持ったツールなのではないかとさえ思える。

            とするなら、

            意識(=エゴ)それ自身には、もとより制限付きという意味で、私たちの内なる無限のパワー、無限の意識の思惑や意図などは、そもそも理解できない。できなくて当たり前なのだ。

            やはり一昨日、
            ある”奇妙な動画”を見つけた。

            この動画は、
            なんとも不思議な魅力を持つ動画なのだ。
            合理的な解釈に支配され、慣らされた頭では、
            にわかには信じ難いし、「作られたモノ」「ウソ」と言えば、
            すべてが、それまでの話だ。

            私は、その合理的な解釈を、端から、決して否定することはしない。
            そう思うも当然だとさえ思う。

            ただ私は、この動画が、意図的、作為的なもので一切なく、
            もし事実であるとするならばという余地を残して、
            この動画の可能性を受け入れてみようと、単に、思っているだけである。
            単に…。

            なぜなら、私は、固よりパラレル・リアリティやバリアントの空間などの概念を受け入れており、
            その形而上学的な世界感のフィールドをある程度、受容しているからだ。

            動画のタイトルは、このブログのタイトルの通りで、
            しかも、冠つきだ。

            YouTubeの動画で、
              「世界で一番奇妙な動画」
            http://www.youtube.com/watch?v=vhAXeO5Z1SY


            動画は、淡々と、二人のよく似た人物たちがウエストショットで撮影されている。
            カメラの前で、互いに肩を抱き合い、時に、顔見つめあい微笑んでいる。

            背景は、どこか高原か、野原のようなところだ。
            しかも、ともに、
            はげ頭の男たち二人だ。
            西洋人にありがちな「かぎ鼻」が特徴で、
            互いに良く似ている。双子か、兄弟なのか…、

            あるいは、
            コメントでも焦らすように、投げかけて触れているが、
            または親子なのか…。

            そして
            映像の途中で、右腕をともにカメラに見せて、
            同じ柄の刺青を見せている。

            当初、
            「何だ…。こりゃあ。」と思う。
            「何が、奇妙なのか…」と普通に思う。

            日本語のコメントを順を追って、読まないと、この動画の意味が、全くわからない。

            そして衝撃的な。
            一瞬、頭の混乱するようなメッセージが飛び込む。

               「この二人は親子でも兄弟でもありません…」

            「はぁ…」と思わせられた矢先、

               「このふたりは同一人物なのです。」

            と説明が付く。

                「…………。」

            思わず、沈黙する。頭の整理が付かないのだ。

            コメントはさらに続く、

               「信じられないと思いますが……。

                このスェーデン人の男性、ホーカン氏はタイムスリップを体験し、
                2042年に行ったと主張します……
                ホーカン氏は2042年の自分と会い、会話したそうです……

                何か証拠になるものはないかと考えたとき…」

            と説明があり、持っていた携帯でこのときの様子を撮影したというのだ。

            この動画を私は、何度も見た。

            見たあとで、なぜか独特の不思議な感覚に襲われるのが奇妙だと思った。
            動画とは、本来は、関係ないが、音楽的な効果なのかも…。
            妙に、後付けのオルゴールのような音楽が合っていて、
            この奇妙な風景を一層盛りたてていることに気付いた。

            念のために言っておくが、
            この動画には、別バージョンがある。

            ホーカン氏が、カメラ前で、インタビューなのか、
            回想するように答えている動画もある。

               本邦初翻訳!!ホーカン氏の奇妙な体験【携帯動画付き】
                http://www.youtube.com/watch?v=2zh1w3_IKVY

               だ。

            こちらでは、
            なぜタイムスリップしたのか、その経緯が述べられている。

            また、
            この動画にあるタイムスリップの可能性については、
            わずかながらも否定できないとし、
            物理学者のハンス・カースン博士が、次のように言う。

               「物理学の法則によれば、理論的には可能だ」 と。

            私は、この動画を見るたびに思う。

            肩を組み、笑顔を返す二人のはげ頭の男たちの横顔。

            見つめ合った横顔のシルエットの特徴的なかぎ鼻に、
            つい目が行くのだ。

            どう見ても、同じ形だと。ついでながら言えば、

            時間軸を同一の直線のラインでしか考えられない習慣に慣らされているなら、
            この動画の現象は、そもそも理解できないだろう。
            なぜなら、
            現在の自分が、過去や未来の自分に合うことは、歴史や時空間を歪めるという、
            よくありがちなドラマによって、
            創られた思い込みに慣らされているからだ。

            逆に、この動画が、仮に真実だとするなら、
            無限に今、同時にあるパラレルな世界を裏付けることにもなるのだろうと私は思う。

            いずれにせよ、この動画は、なるほど奇妙だ。

            エゴの制限付きの解釈で、この動画を推し量るとき、誰しも、
            「作られたモノ」「ウソ」の方に、すぐに反応が返るだろう。

            だが、私たちの世界は、本当はエゴの認識では決してできないところにある。

             




            posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 21:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            ☆イモトアヤコの人生のミッション
            0

              23日早朝のことだが、yahooのトップページのニュースで、
              ”イモト エベレスト挑戦ピンチ”【2014年4月23日(水) 6時3分掲載】
              http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140423-00000009-nksports-ent

              の記事タイトルに、ふと目が止まった。その内容は、ご存知の方も多いと思うが。

              日本テレビ系「世界の果てまでイッテQ!」(日曜午後7時58分)の企画で
              エベレストに挑戦するイモトの話だった。

              私は、この記事を読んで、イモトの”今、ここ”を思うとき、
              単なる芸能記事というよりは、スピリチュアルな文脈として感じとっていた。

              この「世界の果てまでイッテQ!」は、私自身のことで言えば、
              放映初期の頃には、よく見ていた番組のひとつだった。

              大袈裟なほど太く黒い眉を書き、さらに頬を赤く染めたオブスなイモトが登場していた。
              初めて、この濃いキャラを見たとき、

              「何で、こんな顔に…」と、「この娘、見た目のインパクトだけで…」
              芸風というものを特に感じなかったので。
              「大丈夫か…この娘。」と正直、思った。

              何が「大丈夫か」というと、
              厳しいお笑いの世界でやっていくには、まず話芸に著しいものがないと、
              ちょっとこれだけではキツイだろうと率直にそう思ったからだ。

              だが、こちらが案ずるよりも、彼女には案外、強運に恵まれていたようだ。
              少なくも、番組のコーナーをなんとか現在まで持ち堪えられてきているらしいからだ。

              その実績もあってか、かつて他局の番組でも、
              イモトがあのキャラのまま登場しているのを何度か見かけたこともあった。

              「世界の果てまでイッテQ!」の番組は、
              個人的には、4年以上前から、諸事情で見なくなった。いや、見られなくなってもいた。
              その点で言うと番組が、その後どう変化し、進展していったのかは、
              一切知らなかった。特に興味も持っていなかった。

              個人的には、その程度の知識で、yahooのトップ記事のタイトルを見て、
              イモトがエベレスト登頂に挑戦となっていたので、「ふーん。よくやってるな…」と思った。

              ニュース記事を読んでみるが、どうも記事内容に関心が向かない。頭に沁み込んでこない。
              それは、それとして、
              ただ、番組の企画で、イモトは、イモトで、命がけで、過酷な挑戦にあえて向き合って
              いるんだなとは、強く感じた。感心もしている。大変だなとも思う。

              と同時に、
              イモトの人生を私なりに思うとき、ある別の見方が出てきた。
              それが、前述したスピリチュアルに感じた部分で、私自身なりのちょっとした気づきなのだ。

              イモトのこれまでの人生の役柄は、運命(人生のライン)によって、
              ある仕掛けが施されているのだなと、つくづく感じた。
              それは、かなり巧妙で手の込んだものだとも思った。

              私の感じたことを以下に書いてみよう。あえて前置きして言うが、
              私なりの偏った見方であることを事前に申し上げておこう。
              どう捉えても、皆さんの自由だが。ただし、私がイモトを貶めようというのでは、決してない。
              むしろ彼女の生き方に、私たちが学ぶところが大いにあると言っているつもりだ。

              それは、イモトが負っている人生のミッションについてだ。

              彼女は、本人がどう思っているかわからないが、
              おそらく、お笑いか、ただ願いとして有名になり、そこそこのタレントになりたいと
              強く思っていたはずだろうと…。

              そして、その夢は、
              「世界の果てまでイッテQ!」の番組のコーナーを持つことで、見事に達成された。

              彼女の思いの強さは、我々が、彼女の印象から受けるより、はるかに根強くあったものが、
              いまなお結晶化されつづけ、そこに現れたカタチなのだ。

              私が今回のイモトの記事を見て、つくづく感じ入ってしまったのは、
              彼女のミッションが、必ずしも彼女がタレントになるというところとは、
              別次元にあるのではないのか、ということに気付いた点にある。
              言い方を変えれば、お笑いタレント(あるいはタレント)である必要は一切なかった。

              要は、お笑いタレントとしてのイモトの姿は、彼女の本来のスピリチュアルな面からすれば、
              自身の生まれ持ったミッションを体験するために、
              どうしても、人生ライン上の当面の一つの近道として、
              ミッションそれ自体が数多の方法の中から、あえてタレントになることを彼女の意識に
              選択させ導いたものなのであろうということ。
              その上で、タレント・イモトを引き上げて、さらに番組を通して、
              本来のミッションを遂行させることなのだろう。そのように感じたのだ。

              言わば、タレントとしてのイモトの姿は、
              ただの一つの通過点的な手段だったのだろうということを私は述べている。
              もちろんあくまでも勝手に、個人的な見解で言っている。

              さらに言えば、番組の仕事は、イモト本人の側からすると、
              おそらく、すべてはタレント業としての仕事を誠実にこなしているという思い込みだけで、
              頭がいっぱいで。
              したがって自身の人生への客観視はしておらず、何も気づきはないのだろうとも思っている。

              こう述べた上で、私が気づいたのは、
              彼女は、日々、何も意識することなく、ひたすら自身のミッションに導かれるままにある。
              つまり、
              彼女にとっては、お笑いタレントの延長線で、いま目の前の仕事していると思っているだろうが、
              実は、世界をかけ巡るということにこそ、彼女の学びとミッションがあるということだ。
              そして、そこに、
              イモトのスピリチュアルな本性の意図とあり様があるのだろうと、そう思えてならない。

              事実、以前、彼女は、何かの番組でパスポートを見せたことがあるが、
              そこには、各国のスタンプが余白なく押されていたのをいま思い出した。
              このことからも、ただのタレントというよりは、もっとそれ以上のものを、
              そのパスポート意味が、裏打ちし象徴していたように思う。

              このブログは、イモトを批判しようと思っているのでは一切ない。
              もう一度、あえて念のため申し伝えておく、その考えはない。
              むしろイモト自身の活躍があるおかげで、私たち各人の人生のミッションが、
              見た現象と違うところにあることを気づかせてくれたということを私は述べたいと思っている。

              彼女の現在までのところの成功は、このスピリチュアルな意図を素直に体現し続けている限り、
              保証もされているのだろうなとも思う。

              いずれにせよ。
              彼女のエベレスト挑戦が、成功のうちに終わってほしいと願っている。

               




              posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              ☆変わり目の予兆かもしれない
              0

                ―丸々亭さんに捧ぐ

                まず、コメントありがとうございました。
                以下の内容は、丸々亭さんからいただいたメッセージ受けて、レスポンスの代わりになるものをと思い、
                最近、自分の身の回りに起きたことの中から、ちょっとした気づきを書かせていただこうと思った。

                ====================
                辞めて一年には、まだまだ満たないが、このブログで何度か触れたが、
                私は、公共の施設のロビーで、数時間ほどのアルバイトをしていたことがある。
                施設自体が大きく、広範なため、そこでの清掃作業は歩くことが中心で、

                結果、膝を痛めてしまった。

                私にとっては、生活費補てんのためのアルバイトでもあり、当時は、
                息苦しいほどに金がなく、医者に行く余裕など、もとよりなかった。
                したがって、膝を痛めことで、それが理由で、

                もし、しばらくの病院生活が必要となったら、出費の工面や収入という面でも、
                大変なことになった。
                それを避ける意味で、当然、膝の痛みに苦しみながら、医者に行くこともなく、
                かなり痛みで苦痛だった時を除いて休むことなどはできなかった。

                そして、そのことで。
                ずっと、ずっと後になってから気づいたことなのだが…、

                膝を痛めた直接の原因は、もちろん、その職場での労働環境によるものだが。
                本当の原因は、もっと別のところにあるということが、私の中では結論が付いていた。

                つまり、原因は、
                確かにその職場で足を、無理をおして酷使したことによるのだが…、

                もし、この私たちの見ているリアルな世界が、私たちの心(内面)を映し出す、
                反映する鏡のようなものだということを真摯に受け入れるなら。

                私が悩んだ、膝の痛みは、当時の私自身の潜在的な心情を、文字通り、反映していたのだということを
                確信している。
                いまでも膝の具合は、まだ完全に癒えてはいないが、一進一退で、当時よりずっと改善しつつある。


                私自身の心情の反映とは、何か?

                その職場で働くことになった後悔と大いなるストレスの現れだったのだ。
                その職場での採用が決まり、いざ職場に行ってみたとき、

                あまりのガチガチなセキュリティに加え、下請けのまた下請け会社に属する労働者としての私たちの存在を
                軽んじる多くの制約などで、この職場で仕事することになったことを大いに後悔していた。
                甘いと言われれば、そうかもしれない。あえてそう思う方に、異を唱える気もしない。

                私の心情は、
                すぐに辞めたいと思っていた。
                そして、ここで具体的に述べることはできないが、時には、あまりにも些細な、
                そんなことでと言いたくなるような、気の抜けたような不注意で、
                即、解雇に繋がりかねないケアレスミスもした。
                その意味で、常に、緊張を強いられていた。
                そうした気の抜けない状況が、ストレスを過剰に生んでいたように思う。

                それでも、上に立つものが、カバーし、なんとか私を守ってくれた。
                そのことにはとても感謝している。

                ほかにも、ちょっとした人間関係にも、ピリピリし躓いたこともある。
                こちらが悪いわけでもなく、一方的な誤解もあったし、
                相手都合の論理を高圧的に押しつけられたこともあった。
                前述した上司に対しては、すでに反論する気にもなれなかった。

                こうしたことの不運な出来事のあり様から、
                意図せず起きたことについて、ずっと後で、振り返りいま思うことは、

                「はっきりそうなのだ!」
                と、感じていることがある。

                それは―

                すべて原因は、
                私がその職場で働くことになって、
                「すぐに辞めたい」「でも、辞められない。」「やっと、見つけた仕事だ…」という
                制約などを感じつつ、その作用が働き出したことによるもので。

                それは、思いのほか。すぐに、
                心の深い、深い、無意識の部分での思いを刺激して、
                ついには、
                現状否定的で、嫌なことの状態を醸成する原因を造り出していたのだと感じたこと。
                その表れによるものだったのだなと、いまは強く確信している。

                言い換えれば、私自身の強い違和感が、
                その場にいることを、拒否するあまり、無意識がわざと仕掛けた自己防衛のためのワナだった
                のだなと思っている。

                そして、いまになってさらに気づいたことは、それだけではなかったのだ。
                もとより、
                不快な出来事が起きた理由には、もっと重要な意味があったのだということ。

                その気づきを書いておきたい。
                いわゆる望まない職場やあるいはすべての環境、状況を含む現実は、
                私たちが、いま望むリアリティとは切っても切れない不可分にあること、
                実は、その重要な一部なんだということだ。

                そして、いま起きた不幸な出来事は、案外、素直に受け入れたほうが、
                実は、良い方向へ流れの展開が早くなるようだ。

                しかし、
                「辞めたい」のに、「いま辞めたら、経済的に困る」というような不安で、
                矛盾した気持ちいると、ますます振り回され、結果は、さらに悪くなるようだ。

                素直に、神の振ったサイコロに従った方が、すべてうまくいくらしい。
                しかし、心情的には、難しい。むしろ原状回復を求めようと起きた現実と闘ってしまう。
                闘っても、それは一時的な、延命策にしかならないということだ。
                それが一番、まずいパターンのようだ。

                とにかく、流れに逆らわず、受け入れてしまえばいいようだ。

                もちろん、その直後は、もっと厳しい現実を突き付けられれるかもしれない。
                さらに、さらにネガティブな状態を、心ならずとも、引き寄せてしまうかもしれない。

                それでも、いま目の前の現状を、あえて望む現実だとして受け入れたとき、
                大きな展開がやってくるようだ。としても、この私も、これまでは焦ってしまっていた。

                その意味で、不運な最中にあるというときは、
                むしろ望むリアリティの予兆の傍にいるというサインなのだと気付くべきだ。

                しかし、私たちは、なかなかそのように気付かない。
                その望まないリアリティに翻弄され、振り回され、感情的にもなり、意気消沈し、
                結果、さらにもっと不快な望まないリアリティを呼び寄せてしまうか、居続けることになる。

                トランサーフィン・シリーズのヴァジム・ゼランド氏やバシャールは、その対処法として、
                いま起きた不運や困難な出来事を、あえて喜んでしまえと勧めている。
                なぜなら、
                その思いの逞しさこそが、望むリアリティへの展開を導き、変えてくれる可能性があるからだ。

                難しいことだが、
                不運なことが起きたら、まずは、喜べということだ。

                 

                 



                posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                ☆予感
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                  「まっ、どうでもいい…。明日の朝になれば、分かるから。」と思っていたが。

                  それでも、無意識レベルで気にかかっていたのか。目覚めたとき、朝5時の少し前だった。

                  なんと「ちょうどだな…。」とふと思う。

                  昨夜から懸案だったため、
                  TVを点けると、日曜の朝だというのに、すべてのキー局が同じ話題を放送している。
                  いま、まもなく結果が出るそのタイミングで、結果待ちのその瞬間だったのだ。

                  結果とは、2020年の五輪招致の行方についてだった。

                  目覚めると、事態は、意外なカタチで、すでに進んでいて、
                  日本とイスタンブールとの最終決戦だという。

                  「えっ!イスタンブール…?マドリードのはずじゃ…?」
                  ちょっと、不安がよぎった。

                  「何があったのだろう…!」と思いつつ、20分ほどがして、
                  予想外の展開があったらしいことが、ほぼ類推できた。と、…そのあたりで。

                  そして…ようやく、知りたいその結果が、
                  TVの画面から
                  IOCのロゲ会長の口を通して、

                     「TOKYO…!」

                  と発表されると、寝床で、思わず私も「おぉ…!」と、声が漏れた。
                  2020年東京オリンピック開催決定の瞬間だ。画面からは、当然、激しい喜びの歓声が、轟く。

                  正直、「良かった」と思った。

                  このとき、
                  私は、胸の中である感覚を体感していた。。
                  それが、本日ブログをあえて書いてみようと思った動機でもある。

                  ―――

                  ロゲ会長が、メンバーから手渡された大きな封筒を開封する直前に、
                  私は、普通なら、考えたくない予感として、「イスタンブール」と会長が言うのではと、
                  緊張と不安の入り混じった感覚にあった。

                  その瞬間を、
                  わずかな一瞬を思った。

                  かつての私なら、それを、
                  単に、至極当然な心の動きとしての「期待と不安」の交錯で片づけていただろう…。

                  しかし、そのときの私は、はっきりある感覚を意識したのだ。

                  2020年の五輪開催国が「東京」であるという結果と、
                  もう一つ、「イスタンブール」で決まるという私たちの物理的な現実に、実は、
                  別の結果をもたしているラインが、ぴったりと並列するように用意されているというような感覚だ。

                  つまり、表現のしようがなく…、
                  妙な言い方で言わせていただくと、皮膚感覚のように感じた。

                  はっきり言おう。
                  私は、超能力者でも、霊能者でもない。むしろ鈍感な方で、ただの凡人だと宣言しておこう。

                  ただ…。
                  私は、ポジティブな受け入れをしたいと、なるべく、意識的に心がけているので、
                  私の意識レベルでは、目覚めたとき、
                  開催地は「東京」という人生ラインを私が選択し、
                  そのとき、そちら側にシフトし、すでに、その中に組み込まれたのだ。

                  このことは、実は、重要な意味を含んでいる。
                  すべては、私の意識の中で起きていることなのだという自覚と認識。

                  それは、もっと詳細に述べるなら、
                  私と共に、消極的ながらも、概ね肯定的な意識をもつ、私バージョンの物理的な人々が、
                  2020年の五輪の開催地は「東京」という人生ラインに、
                  一緒に、与されたのだなという理解であり、なぜか、そう実感したということに相当する。

                  と同時に、私が感じたことは、
                  確かに、
                  私の意識は肯定的なラインにシフトしており、それを喜んだ。
                  が、一方で、私自身の別バージョンがあり、そのライン上においては、物理的な現実において、
                  五輪の開催地が「イスタンブール」で決まっているラインをも、先ほどの言い方で言うと、
                  皮膚感覚でふと直観したのだ。


                  もう少しいえば、私の五輪に対する意識レベルが、もし否定的に受け入れておれば、
                  むしろ、そのラインの中にシフトしていた可能性があるということだ。

                  このブログを読んでいただいている方の多くは、
                  何を私が、世迷言を言っているのかと思われるかも知らないが、そう思う方は、それで結構だ。それは正しい。

                  ただ。私は、感覚を述べさせていただいている。
                  だから、
                  決して、信じなくて結構だ。私自身は、ちょっとした感覚を、実に、わずかな瞬間なのだが、
                  そう感じたのだ。

                  別言すれば、私としては、そのとき、
                  パラレルな感覚を、瞬間感じたということを述べたかった。

                  いずれにせよ。

                  前述したことは、共感していただけなくて、結構だが、
                  それとは別に、

                  このオリンピックの招致では、猪瀬都知事が実によく頑張っていたという思いがある。
                  また都知事の周辺の人々もそうだ。そうした方たちに対して、
                  いま感謝の気持ちでいっぱいだ。

                  さらに付け足しで言うが、失われた20年といわれ、これまで日本は低迷していた経済的な発展を、今後、五輪開催とさらにそのあとも、劇的に遂げるだろう。
                  いま予想できない驚くべき未来感覚のめざましい技術革新を、
                  日本発で、提案し、それが経済をさらに牽引し発展を遂げるに違いない。

                  そういう予感もする。
                  なぜなら、私は、その人生ラインを選択したからだ。すべては、私の意識世界の中で起きているのだから。



                  posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 17:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  ☆MR.NOBODYを観て
                  0

                    久しぶりに、ブログを書こうという気になった。
                    正直、プライベートな時間が忙しくなり、
                    あれやこれやが気になって、その分、PCに向き合って、
                    じっくり”theme”を思い書いてみようという気になかなかなれないでいた。
                    そんな中、
                    昨日、TSUTAYAを覗いた。特に、観たいDVDもないのに…。

                    否、何かを探しているが、その何かがわからない…のだ。

                    で、仮に、ちょっとしたタイトルを観てみようと、見つけたとしても、
                    自分の中では、言い訳が始まる。

                    つまり、
                    そのDVDを観るための時間がもったいないという思いに振り回されるのだ。
                    あげく、
                    別の機会にしよう…と思って引き上げるのが常になっていた。
                    それが、習慣のような心の働きになってもいたが。
                    一方で、
                    矛盾するように、なぜか、何かを手探りする感じだけは、違和感としていつもあった。

                    そして、昨日も、ままならない気持ちのまま、外へ出ようと思い始めたそのとき、
                    DVDのお勧めのメモに気付いた。
                    店の誰かの手書きによるものだった。その文言の中に、
                    ”パラレルワールド”という言葉を見出し、お勧めのDVDをとることにした。

                    タイトルは「MR.NOBODY」だった。

                    探しているものは、やはりこれだったのだな…と思った。
                    このタイトルを手にしたということにも、私にとって意味があるのだろうと思った。

                    この映画は、
                    事前に”パラレルワールド”というものについての手書きのメモによる紹介を
                    読んでいなかったら、恐らく、何が、何だかさっぱりわからないで、
                    ただ混乱し、低い評価をしてしまったか、途中で、観るのを止めていたかもしれない…。

                    この映画については、説明するのはちょっと難しい。あらすじは、意味がない。
                    それが”パラレルワールド”というものの意義でもある。

                    このDVDの基本的な”theme”は選択ということだ。
                    「もしも…」あの時に、違う選択をしたらということが、
                    パラレルな現実によって、異なる結果(現実)をもたらしてフラッシュ的に紹介される。

                    時代は2092年の近未来の不死が可能になった世界で、唯一、生命に限りある人間を選択した
                    118才の主人公が、その最後”=?”のときを迎える間際に過去を随想するという内容だ。
                    「その最後”=?”のとき」に”?”を付けたのには、意味がある。

                    それは、DVDをご覧になった鑑賞者が自身で、考えるのが良いだろう。
                    ここでは、これ以上説明をしない。

                    私が、このDVDを観て得られたことは、
                    「現在、過去、未来が同時に存在する」ということについての、
                    抽象レベルでの概念を受け入れられるかどうかの理解ではなく、
                    物理的な部分、物理次元での、いま一つ、
                    充分に腑に落ち切れていない、理解し難かった点について、
                    ちょっとした足がかりをつけたという点にある。

                    うまく説明できないかもしれないが。
                    表現してみよう。

                    私は、高校時代にバスケット部に所属したことがある。一年生のときに、一年弱だ。
                    そもそもスポーツが嫌いで、走るのもいつもビリな私が、
                    あえてバスケット部に所属してみようと思ったのは、まったく不純な動機だった。
                    一年先輩の女子のバスケット部員に、ちょっと見の美人がいたからだ。
                    いま思うと、なぜ、憧れたのか。自分ながら不思議だが。そうした動機があった。
                    その話は、話が逸れるし、あまり意味がないので、これで省略する。

                    このバスケットをするということは、身体を鍛えるというようなレベルにおいても、
                    一見、高校時代の出来事で、その時だから、当然のことのように、
                    妥当性のあることだろうと思う。

                    だが、私が、前述したDVDを観て、
                    改めて、パラレルな観点から、つまり「現在、過去、未来が同時に存在する」
                    という概念から、捉えなおすとき、違う見方があって良いと思えたことだ。

                    私は、一例で、高校時代にバスケット部に所属したと前述した。
                    このバスケット部に所属するということは、ある一面の解釈をするなら、
                    中学時代でも良かったし、大学時代でも良かったことなのだ。
                    あるいは、もっと後年になってからでも、学業とは別な次元で、
                    趣味で体験しても良かったことなのだ。
                    カタチや状況、環境を変えてもよかったことなのだ。

                    そう思えるとき…、
                    いつ体験しても良かったという面で捉えるなら、
                    「現在、過去、未来が同時に存在する」という概念が、幾分でも理解しやすくなりはしないか。

                    物理次元の私たちは、時間軸にかなり強く縛られている。その中で、
                    私たちの体験は、便宜上、時間軸の中で、順番に、順を追って受け止めることにあまりにも慣れすぎているが、
                    それが意識が創り上げた幻想であることに気付き、
                    パラレルな世界観を持つとき、それはどうでもよくなる。

                    ただし、あえて言うなら、何らかの理由で、バスケットを体験するということは、
                    どの時期においてどういう体験を選ぼうと、
                    私の人生において、必要な要素であったのかもしれない…。

                    いまは、筆記上、”バスケットをする”ということに、フォーカスして、
                    特別な意味付けをしているが
                    (= バスケットというのは、ここでは、あくまでも象徴として述べている。)

                    私たちが人生において体験することには、すべてにおいて”選択する”というイベント要素があり、
                    それをパラレルな現実の中で、あみだくじを辿るように、どうにでも変わり得るものとして体現しているようだ。

                     

                    posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 20:16 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    ☆変 化
                    0

                      昨日、今日と、ちょっとした雑感を抱いたので、それを覚書程度に書きとめておきたい。
                      いつもそうだろうが、
                      特に、今日の話は、教訓めいた話はとてもできそうにないので、
                      有意義な時間を過ごしたい方は、
                      この先を読むことはあえて勧めない。
                      ご自身の他を優先してほしい。

                      私は、都内の3棟を合わせると、
                      100世帯をやや超える小さな5階建ての集合住宅の一つに住んでいる。
                      そこで、この4月から自治会の役員を引き受けている。

                      昨日と、今日、私は、そこで自治会員の方への配布物を配るため、
                      3棟それぞれの建物のすべてに廻った。
                      普段は、小さなコミュニティだと思っていたが、
                      いざ、一軒、一軒回ってみると、案外、しんどいと思わされた。

                      そのとき私が、そこで見た風景から、妙な印象を持ったので、
                      そのことを、今日のブログで触れてみたいと思った。

                      3棟の集合住宅の配置は、俯瞰で見たら、ちょうど郵便局のあの記号「〒」のような配列をしている。
                      私は、その集合住宅の「〒」の記号でいえば、「|」の部分に子どものときから数十年そこに住んでいる。
                      建物の外観は、すっかり老朽化が進み、痛みの激しい建物となっている。
                      しかし、それは外観だけのことではない。そこに住む人々の高齢化を象徴しているのだ。
                      外観について云えば、
                      壁は、一度は、塗りなおしたにもかかわらず、色褪せ、塗りがはがれ、壁は、年月の圧力でひび割れてもいる。
                      石の階段の衰えは、なおさらで、石段の滑りどめのステップの板状の石も割れていたり、剥がれ落ちている個所も、
                      少なからずある。
                      外観は、誰も居なくなれば、数日で廃墟のような趣きを化すだろう。
                      さきほど外観は、高齢化を象徴していると、上述したが、
                      実は、私たちの意識そのものを鏡のようにそれが反映しているのだと、
                      つくづく感じている。

                      数十年前、ここには、当たり前のように子どもたちの声があった。
                      泣き、甘える声、拗ねる声、訴えるような声、かん高い声、女の子、男の子の遊ぶ声、
                      それら幼子特有の声があった。
                      大人たちの声もイキイキと活力があり、子どもを叱る声があったり、呼ぶ声もあった。
                      当時、若い主婦が集まって、何らか噂話か、あるいはご近所の話で盛り上がっている
                      そんな風景もいくらもあった。みんながみずみずしいほど若々しかった。
                      と、
                      豆腐売りのラッパの音で、そろそろ夕飯の支度をしなくちゃと、
                      あわててパッと散る主婦たちの姿も、
                      見かけたものだ。

                      これは、時間と空間を移動することで、体験している思い込みのシフティングなのだ。

                      単に、時間が縦軸の直線で、移動し変わったということではない。
                      そう見えるだけだ。そう感じるだけだ。

                      その見方は、ただ外の世界の在り様をそのままに受け取り、解釈しているだけで。
                      間違っている。
                      私たちは、時間と空間、そこにある物理的現実の体験から、
                      私たちは、自分の人生の制限を体験している。私たちの人生も一定の時間の制約を
                      受けるのだとそう理解し、固く信じ思い込んでいる。

                      その思い込みの意識は、
                      当然、外の世界、物理的現実に、そのまま反映される。

                      私たちが見ている建物の外観は、すべて私たちの無意識の見事な現れなのだ。

                      私が、主に昨日、私の住んでいる建物の棟とは異なる、
                      他の棟の各階に配布物を持って、廻った時に、何とも言いようのない、
                      強い驚きを感じた。

                      同じ敷地内の3棟の風景は、全体的に同じ対象物やエリアを見ている…はずなのに、
                      全く違った角度から、私が普段、よく見馴れていたはずの風景が、
                      角度が異なり、高さが異なることで、全く別次元のような印象を持ったことだ。

                      先の言い方でいえば、私は、その集合住宅の「〒」の記号でいえば、
                      「|」の部分に、数十年住み続け、
                      同じ風景の一側面だけを数十年見続けてきた。何の疑いも持たずに。

                      と、同じように。

                      私の自治会のもっとも遠い棟の住人もまた、私と同じ対象物やエリアの風景を見ながら、
                      それでいて全く異なる角度の風景の一側面だけをやはり数十年を見続けてきたのだ。

                      私は、数日前、当ブログで、「居続ける」ということを書いた。
                      それは…。
                      ある思いを抱き続けるということが同じラインに居続けるという意味だったが。
                      同じ風景を見づづけるというのは、
                      私たちの思いの一側面を変えることができなかったという証でもある。
                      そして、
                      その外側の風景による鏡の中で、私たち自身も自ら創りだした制約の思い込みによって、
                      私たち自身の老朽化を意識し、納得させられるらしい。

                       

                       

                       

                       

                       

                      posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 23:09 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |