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☆onenessを理解する最良の記述
0

    ワンネスという言葉は、スピリチュアルな世界に足を踏み入れた瞬間に出遭う。
    重要な言葉だ。
    実にシンプルでありながら、矛盾するように超高度な概念なのだ。
    分かるようで、分かり難い言葉だ。簡単なようで、実は、難解。
    少なくとも、私はそう感じてきた。

    いまワンネスについて記述を進めてきたとき、
    家族という単位のその中にあって、
    やや扱いにくかった未熟な私の少年時代のことを思い出していた。

    10代前半の頃のことだ。
    ある日、母の連れ合いが、1〜2匹程度の金魚を買ってきたことがある。
    そういうことが、少なくとも2−3度あったように思う。
    罪深い私は、いま”連れ合い”と書いた。

    もはや遠い、ずっと遠い昔のことなのだが、私の素直でないわだかまりが、
    いまだに名残りとしてある表現なのだ。お目障りな表現を許していただきたい。
    率直に言って、その方は、固より、そういう優しい心根をも持った人でもあるのだ。
    私の評価が、公平でなく、ひねくれていただけなのだ。すでに他界した方であり、
    心の中では、手を併せ、詫びもし、感謝もしている。

    話は逸れて申し訳ないが、そのことに少しふれておきたかった。

    金魚について、話をもどすと…。

    その頃、私たちは、6畳間。木造の賃貸アパートのわずかひと部屋に私たち4人が住んでいた。
    まがりなりにも、生活の家具もあったし、中古で買った華奢な4つ脚のテレビもあった。
    したがって部屋は、4人が寝るのは、どう繕って、気取って、言おうが狭い。
    その狭い部屋の片隅に、ほとんど使われることのない兄が買った机の上に、
    その金魚の容れ物が置かれたり、あるいは、それがテレビの上に置かれたりした。

    もちろん、
    金魚鉢なんかじゃない。そんなもの買う余裕がなかった。金魚鉢の代わりは、
    八百屋でイチゴが詰め売りされていた、透明で、ヤワなプラスチックの容れ物が代用された。
    それは、
    さっきまで、ビニール製の手提げ袋から、そちらにただ移されたにすぎない。AからBに。

    私は、金魚が、家族の一員として増えることに、なぜか気恥かしさがあった。
    その感情が、ようやく馴染んだ頃、ほぼ翌日か、良くて、その次の日には、哀れな金魚は腹を上にして死んでしまっていた。いま思えば、酸欠が原因だったと思う。私たちに知識がなく、
    不運で、可哀そうな金魚だった。

    しかし、
    このイチゴの容れ物の中の刹那を生きた金魚は、私の記憶の中に鮮明な印象を残していた。
    まるで後の私のために。
    つまり、ワンネスを理解する上で、その金魚の記憶がキーとなって蘇ったからだ。

    私にとって、スピリチュアルな世界の理解のためのバイブル的な書として、
    ヴァジム・ゼランド氏の「リアリティ・トランサーフィン」とチャールズ・F・ハーネル氏の「マスター・キー」がある。

    特に、最近は、「マスター・キー」を、何度も読み返しているが。
    その中に、ワンネスの概念が記述されているのだ。読み返すことへの理解の効果の大きさは、
    以前にも、当ブログでも触れているが、いままで、どうしても分かり難かったワンネスの記述が、この本によって、より理解を深めさせてくれるのだ。

      「たった一つの原理ないし意識が宇宙全体に行き渡っており、すべての空間を
       満たしているということに異議を唱える者はおりません。
          宇宙のどこを取っても、どんな些細な空間でさえ、その原理が働いていない
          ところはないのです。それは全知全能であまねく行き渡り、あらゆる思考が
          物質を内包します。それは万物の源なのです。」

      (「ザ・マスター・キー」チャールズ・F・ハアネル[著] 菅 靖彦[訳] 河出書房)

    私は、この記述を読みながら、考えに耽った。そして、前述した
    ”イチゴの容れ物の中で泳ぐ金魚”を思い出したのだ。

    次に、地球を覆う大海。そして地球や宇宙、いや宇宙全体。

    非常に恥ずかしいほど、大雑把なことをあえて言うが、
    まず、海を先の金魚鉢のように思った。

    原始以前から、気の遠くなる時を経て、豊かな海は、やがて無から生命を育み、
    同時に、大地も生命で潤い、進化が始まり、その限りない繰り返しと、
    そのまた幾重もの繰り返しによって、今日の私たちへと繋がっているのだと。

    さらに、海から、次に、地球、さらに
    宇宙全体を大きな金魚鉢のように、捉えてみた。

    私たちは、一つの宇宙という容れ物(鉢)の中で、その宇宙の創造の意思や意図を育み、
    表現しているのだと理解し得たとき、ワンネスの概念がより身近に思えたのだ。

    それが受け容れられるとき、思考する宇宙というものを意識できるようだ。

     

    posted by: fukugakuru358 | 002/心について | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    ☆凄い洞察から分かること
    0

      「ザ・シークレット」(ロンダ・バンーン著 山川紘矢+亜希子・佐野美代子[訳] 角川書店)
      に登場しているジョン・ハガリン博士の宇宙意識についてのメッセージは、願望実現の根幹を露わについた言葉だと思う。

         「宇宙は本質的に思考から発生しました。量子力学や量子宇宙学が
          これを確認しています。私たちの周りの物質も凝結した思考から
          できているのです。」
                        (前出:p256)

      このメッセージを知って、すぐにそうだと思える人は少ないだろう。むしろ何を言っているのかと、思わされるに違いない。私も当初は、そうだった。
      この言葉の理解を可能にする著作がある。

      ウォレス・ワトルズ氏の著作の「富を『引き寄せる』科学的法則」(ウォレス・ワトルズ[著] 山川紘矢+山川亜希子[訳] 角川文庫)が、それだ。
      その著作の第4章 《お金持ちになるための基本原則》に、理解するための示唆がある。

      その鍵が、「思考する物質」だ。

      この内容については、今後、触れて行きたいと思っているが。あまりに高度なので。
      本日のブログでは、極力、立ち入りたくない。いま中途半端に、記述したくないのだ。
      必要に応じた程度にさせていただく。

      ワトルズ氏は、この本の記述の中で、次のように言っている。
      まず、思考する物質だが、冒頭から高度なメッセージを示唆してくる。

         「形のない物質から目に見える富を作り出すことができる唯一の力が
              思考です。万物の源は無形の物質です。この無形の物質の中に思い
              描かれた形が現実の形として生み出されるのです。」
                        (「富を『引き寄せる』科学的法則」:p33)

      こう「思考する物質」について説明がある。
      さらに、この章の末尾に、ワトルズ氏は、次のように言う。

         「宇宙はたった一つの同じものからできている」

      と述べている。

      ワトルズ氏の「思考する物質」と「宇宙はたった一つの同じものからできている」という概念から、ジョン・ハガリン博士の「宇宙は本質的に思考から発生しました。」の言葉を、理解しやすいものにしてくれていないだろうか。
      私は、同じことを言っているのだなとすぐに直感できた。

      そして、ワトルズ氏の言葉から、私は、ある思いを得られた。
      あえて言えば、
      私だけの気負った見方だったのかもしれないが、
      心と身体の関係で言うと、それぞれが、別のものだと思っていた。
      意識は特別のもので、身体は、それに準じるようなそんなイメージでいままでいた。

      だが、ワトルズ氏の示唆から、次のことが分かるのだ。
      心と身体は、別々のものではなく、一つのもの、広義においては、宇宙レベルにまで及ぶが。
      あえて個人のレベルにフォーカスしてみたとき、そ心と身体は、それぞれ独立した別々のものではないということなのだ。一つの同じものの、別の属性、あるいは側面だという考え方ができるということだ。

      そう思うとき、身体が不調であれば、心が優れない。不安や力強さを欠いてくるだろう。
      逆に、心が弱っていれば、何らかの身体的な病を引き起こしやすいことは、誰しも経験的に理解している。

      このことからも、
      心と身体は、別の独立したもの。身体に宿ったものが、「意識であり心」のように思うことがあるかと思うが、それは、どうやら違うようだ。


       



      posted by: fukugakuru358 | 002/心について | 18:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      ☆心を洗う
      0

        昨日、自分の心を見つめた。
        これまでにも何度かトライしてきたが、
        いままでは、あまりうまくいかなかったように思う。面倒になるのだ。
        どこか、避けているか、逃げているのかもしれなかった。
        で、結果として、満足のいく成果は得られなかったが。しかし、さすがに昨日は、
        ちょっと違っていた。自分の気持ちと向き合う必要を感じていたので。
        そして、
        私が、これでもかと、お金に不足している原因に迫ることができた。
        100%迫れたのか、どうかまではわからない。少なくとも、
        根っこにある出発点のあたりを見出すことができた。

        いままでも何となく感じてはいたのだが。
        その答えを言うと、信じてもらえないかもしれないし、笑われるかもしれないが、
        「お金を要らない」という自分の中に、後天的に培ってきた気持ちに突き当たったのだ。

        詳細は、言えないが、
        「お金を要らない」という意味を、「馬鹿らしい」と思ったり、
        いわゆるストレートに受け取らないでいただきたい。
        私の中の歪んでねじ曲がって屈折した感情だと思っていただければ、
        ちょうどいいと思う。

        そもそも、お金を要らないわけがない。

        現在、時折、お金に困ったりしている私の現状からいえば、
        「お金を要らない」をなんて概念は、それは嘘にさえなる。事実、
        私の意識上では、「喉から手が出るほどに」欲しいものだ。
        だが、これまでは、少額が入って、すぐに右から左で、留まることがない。
        駅を素通りする、まるで新幹線のように。

        しかし、不思議なもので、心の深い部分で、無意識にそういう概念を培ってしまった理由が
        あることがわかったのだ。その主な原因は、生涯のほとんどを貧しさの中で生きた母が病死し、
        他界したあたりから、それは、心のほんとに、深い、深い部分で、
        培ってしまったらしいことがわかった。無意識に。

        一種の変容だ。詳細は、プライベートなことなので、この程度の暗示的にさせていただきたい。
        ただ自分の意識と矛盾して、心の深層が相反して矛盾する場合があることを述べたかった。

        そして、
        「お金を要らない」という感情が私の物理的現実を、
        ここ数年ずっと創出していたのだと、はっきり理解し得た。納得した。

        そのことを通じて、
        私たちの心の思いは、文字通り、物理的現実を創出するのだということを、
        つくづく理解した。

        私は、私自身のネガティブな思いの、かなり深い根っこのところに行きつけたと思っているが、
        パーフェクトだとまでは、まだ思っていない。やや疑心暗鬼なのだ。
        そんなに簡単にシッポが掴めるわけがないと、過大評価しているようだ。
        あまりに要因や理由がバカバカしいので。そう思うのだ。

        としても、ちょっとした気づきについては、
        現時点で、そのネガティブな思いをクリアしたいと思っている。

        そのためにどうすれば良いのだろう…。
        あまり、そのネガティブな思いにフォーカスするのは、かえって良くないだろうとも
        思っているからだ。
        自分の中に、そういうものがあるということの気づきだけでよいのだろう…。
        以前、読んだもので記憶がはっきりしないが、そのように書いている著作もいくつかあった。

        そして、現実レベルで言えば、

        手が汚れたら、石鹸で、水で洗うのが一番だというように。
        それが、心にも、やはり当てはまるのだろうと思う。

        心を現実の石鹸で洗うことはできないが、ポジティブでアファーメーション的な
        もので、ネガティブなものを拭っていくということ、洗い流す、捨てる。
        というようなことがやはり考えらられる。

        ホ・オポノ・ポノは、ひとつの方法かもしれない。
        すでに実践はしている。少し、時間をかけて向き合うつもりだ。

        クリアリング・メッソドという考え方があるが、このブログでは、
        あまり、記述した覚えがないが。それに向き合って行こうと思う。
        今後、何らかの形で、記載していけるだろう。

         


         

        posted by: fukugakuru358 | 002/心について | 13:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        ☆迷宮に意識を向ける時
        0

          「マスターの教え」(ジョン・マクドナルド[著] 山川紘矢+亜希子[訳] 飛鳥新社)に
          注目してみた。この本は、コンパクトで小さいながら、見事に真髄のほとんどが記されている。
          前半は、小説のような読み物としての愉しみを抱かせる。
          後半は、人生の深みと宇宙の法則、成功法則の原理がしっかりと語られているのだ。

          なぜ、この本に注目したのかというと、私の中の思いが、
          自然に「マスターの教え」に向けられていたからだ。
          ここに、何か答えがあるという閃のようなものを感じたからだ。

          私にとっては、
          いま意識(顕在意識=「外なる心」)の迷宮に大いなる関心があって、
          そこから如何に解放されるかが、
          個人的な、極めて重要なテーマになっている。

          そして、
          実は、その答えについては、
          ある程度、私の中で、ほぼ核心をついた概要が掴みだせている。
          やっと核心を遠巻きにできたようなあたりで、
          その外堀に立ったような程度であるが、

          それでも、その中に何があるのかも、曖昧ながら推量しつつもある。
          もっと考察や吟味はいるが…。足りていないと思っているが…。
          それでもある程度の方向性が見えはじめてきた。
          その片鱗を事あるごとに、当ブログの中で、少しずつ記述していければと思う。

          「マスターの教え」の当該著書に表記に合わせて敬意を表する意味でも、
          ここから以降、下欄までは、意識について、本日のブログでは、
          「外なる心」と表記させていただきたい。

          そして潜在意識については、「内なる心」とさせていただく。

          「外なる心」の最大の問題は、その脆弱性にある。そして、自らの問題に
          囚われるという難点を持っている。

          その囚われるところが、自らが、文字通り自ら創り出した「迷宮」である。

          まさに、この我らが物理的現実こそは、
          そこから如何に自らを解放し、自由になり、
          本来の自分の姿に目覚め、気づくかというための場なのだ思う。

          その意味では、創り出したというより、
          固より誰しも、それを背負うという宿命を試練として負っているのだと、
          そう感じている。

          「外なる心(意識)」の迷宮とは、どのようなものか。

          言うまでもなく、
          「外なる心」は五感を通じて、物理的現実の窓口となり向き合う。

             「それは『外なる心』が目や耳から入ってくる全ての情報を判断し、
              これらのメッセージを『内なる心』に伝達している」
                  (「マスターの教え」:p77)

          と前出著書は述べており、
          さらに「内なる心」への伝達が「外なる心」の主な役割であること。
          その伝達を受けた

             「『内なる心』こそ、あなたの中にあるパワーなのですが。
              その本質として、『内なる心』には自ら判断して良し悪しを決める機能は
              ありません。その結果、意識の迷いもありません。『内なる心』は、
              不可能、失敗、障害、限界、不足というものを知りません。
              それは、『外なる心』の指示により、『外なる心』が行けという
              方向に向けて、制限のないすごい力を発揮することができます。」
                  (「マスターの教え」:p77)

          という「内なる心」と「外なる心」の関係性がある。
          しかし、この司令塔たる「外なる心」が、自らの制限に振り回されたときが問題になる。

             「次々と『外なる心』が新しい欲望を見つけたり、
              ありもしない障害を作り出したりするからです。」
                  (「マスターの教え」:p77)

          このとき、「外なる心は」暴走する。
          「ありもしない障害」の迷宮の城に迷い込むのだ。

             「心配したり、憎しんだり、はねつけたりしたいようなことがあなたを
              悩まし続ける。」
             (「[願望実現の法則 リアリティ・トランサーフィン2]」
              ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)

          迷宮が厄介なのは、そこに意識を向けさせて、捉えて離さないことだ。
          私たちが、そこに意識を向け続けるかぎりにおいて、その迷宮は、ますます力を得て、
          まるで養分を吸い取り続けるパラサイトのようになるからだ。

          ここから分かることは、迷宮に意識を向けない。向けてはいけないということだ。

           

           



          posted by: fukugakuru358 | 002/心について | 15:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          ☆くり返される信念
          0

            今朝、TV朝日のモーニングバードを、「〜しながら観」していた。
            なので、ほとんど気が入っておらず、そのまま観ていた。
            その意味で、詳細は、特に場所等、いつの話なのかも、ニュースの元が分からない。
            だが、それははっきり言ってどうでもよくて、そのニュースの内容が、自分にとって問題だと思った。
            「ゴミ屋敷の問題」だ。それは、周辺住民の方たちの苛立ちは、想像に難くない。
            別に、ゴミ屋敷の話は、時折、聴くニュースで。さほど、珍しくもない。
            なぜ私が、この度、関心を持ったかというと…。

            番組のニュースでも、語られていただのだが、2つの異なる自治体の地域に意味なく体積されたゴミがあふれて股がってしまった。そのことで、行政が動き、特に、今回、問題化することになったようだが。私は、そのゴミの住人のことに、関心が向いた。
            そのゴミ屋敷の住人は、6年くらい前にも、やはりゴミ屋敷を創出し、住人が逮捕され問題になったようで。
            心の闇を持ち抱え込んだまま、それは、変わることなく、結局、
            同じ問題を再び、この住人が引き起こしたことによる私なりのショックがあったのだ。

            ゴミ屋敷の住人は、心の闇を抱えているのだ。法的に罰することでは、
            何も解決しないということが、今回わかる内容だったということ。むしろ、
            そうした安易な解決の仕方で良いのかということを、当該事案は示しているのだろう。
            といって、ゴミ屋敷の住人の傍迷惑な行為に私から、あえて弁護する気はない。私は、関知しない。しかるべき資格を持った方が、それなりに、対応するだろう。それでいい。

            私のショックは、このゴミ屋敷の住人が、見事にある事実を炙りだしてみせていることにある。

            その事実とは、

               「問題の原因となっている信念を捨てるまで、過ちは繰り返されることになる」

            ジョー・ヴィターレ博士の著書「宇宙スィッチ」(ジョー・ヴィタレー[著] 住友 進[訳]  サンマーク出版)の示唆だ。

            たまたまこのゴミ屋敷の住人は、自らの信念で、世間から嫌われるような排他的な自己表現をしてしまっている。
            しかし、この例は、、私たちにもゴミ屋敷の住人と同じように、ゴミの収集癖ではないが、別の姿をした何らかの信念を、意識してか、知らずしてか持っているものだと思う。

            自身に当てはめてみるなら、
            私は、私で、自分の現実化された状況、状態の中から、お金が足りないという状態を繰り返していることに気づいている。どんな心の暗部が、そうするのか。それは私自身、突き詰められていないが。私自身の内部にあるものだと理解している。

            ジョー・ヴィターレ博士は、次のように示唆している。

               「現実を創り出しているのは信念だということ」
                     (前出書: p105)

            このゴミ屋敷のことを番組で「〜しながら観」していたとき、
            ふと、ヴィターレ博士のこの言葉を思い出していたのだ。

               「お金の問題を抱えている人はいつもお金に困っていて、人間関係に問題を
                抱えている人はいつも同じ人間関係で悩まされています。一人ひとりの人間は
                まるで自分専用の問題を抱えているかのようです。
                意識するしないにかかわらず、このような問題を創り出しているのが信念なのです。」
                     (前出書: p105)

            このような信念は、ほとんどの場合、思い込みの量と質で現れるてくるように思う。
            それが、軽度であれば、ひとつの個人的なキャラクターの性格のようなものとして、
            時に反映されるのだろう。それが、万人受けすれば、誰からも好かれ、注目もされる。
            だが、反社会的な要素を含んでいるとその思い込みは、嫌われる要素にもなるだろう。

            過度に思い込みが先鋭化してくれば、一例として言えば、
            前述のゴミ屋敷おじさんのようになりかねなくなることもあるのだろう。

            自らを、いつでも客観視できない、自己評価もできない、
            ある意味、思い込みで反社会的に病的になってしまったような場合は別として、

            ヴィタレー博士は、その社会性において、自己実現との兼ね合いにおいて、
            どこかうまくフィットしない馴染まないレベルの信念の対処法を
            次のように示唆をしている。

               「あなたが信念を変えれば、状況も変わっていくのです。
                では、どうすれば信念を変えることができるでしょう?
                まず、自分が人生に望んでいることを選択することです。
                なりたいもの、やりたいこと、欲しいものをきちんと選べば、
                目標の達成を妨げている信念が何かということに、すぐ気づける
                ようになります。」
                     (前出書: p107)

            と述べている。

             

             

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            ☆理由のわからない焦燥感
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              このブログを書くほんの少し前まで、実は、情緒が不安定だった。少し、大げさな言い方をさせていただいている。
              説明するなら、気持ちが作用として働くスピードと現実のスピードが、どうにもチグハグで、
              マッチしないイライラした感じの中にいた。

              何が”どう”ではなく、
              ただリズムが合わないという感じを受け、理由も分からず焦燥感を抱いていた。
              そして、
              その理由を考えてみたとき、
              すぐにあることがその原因になっているのだろうと気づいたので、
              それを筆記してみたい。

              ☆ ☆ ☆
              私の現実は、無限にある私自身のためのバージョン(人生ライン=無限にある宇宙的なシナリオ)の中から、私の思いの波動に同調した世界を自ら創出しているのだということを納得しつつある。
              波動に同調したというのは、
              結果的には、無意識に「選択」したものということだ。

              私は、いま置かれている状況に対して、望む現実とのギャップに人並みに苦しんでいる。

              そのことをあからさまに言えば、
              私のいまの人生のテーマは、ここ数年ずっと一緒で、「お金が足りない」という状況にある。
              そして頑張れば、なんとかなるのだと、成功法則の学びを行うまでは、
              そう考えていた。それは、基本的には、間違いで。
              いまは、違う考えだ。
              結論を言えば、
              頑張らなくていい。頑張ることなどに意味はない。

              私の人生のテーマ「お金が足りない」という現実、その状態は、
              私にあえて課せられた人生のミッションなのだと感じ始めている。
              なぜなら、
              いつもお金が足りないという問題が起きて、
              そして、どうにかこうにか。その単日になんとか乗り越えてきた。
              もうここ何年もそうだ。
              なのに、くり返し、くり返しそうなのだ。
              そして、すぐに、象徴的に言えば、明日にも、再び新たな装いで、
              これでもか…と、
              また「お金が足りない」という現実を突きつけられることになっている。

              いくら鈍感でも、何かおかしい…と、
              さすがに気づく。

              すべては、外側に請求書のヤマがあるのが原因ではなく、
              仮に、現象としては、そう見えたとしても。

              因果は、すべて私自身の中にあって、つまり、
              請求書のヤマをこしらえ創っている原因は、私の内部にあるのだいうことを知った。
              と言って、誓ってもいいが、私は、決して浪費家などではない。
              むしろ惨めなほど、倹しい生活をしている。実は、それも、貧しさから抜けられない原因の一つでもあるのだが。

              こうしたことの中で、
              ようやく気づいたことがある。
              それは、私の置かれている望ましくない現実というのは、
              私自身の思いの果実(人生ライン)を自ら、選んで、摘み取った結果なのだということだ。

              もちろん、誰でもそうだろうと思うが、この物理的現実を生き抜く上では、
              あえて好んで、貧しさなどを望むことはないだろうし、私自身も選んだつもりなどもない。
              「冗談じゃない!」と言いたい。

              それでも、長きにわたって現実がそうだということは、
              確実に、無意識のうちに、わざわざそれを選んでいるのだ。
              それが、現実化しただけに過ぎない。

              そして、いまようやく。
              それを望んでいたのだということに気づき始めてきた。
              しかも、なんと有難いことに、そんなことが頑な信念にさえなっていることがわかってきた。

              率直に言って、私自身の思いの原因について――貧しさを生み出し、お金が足りていないという現実を招いている大元の考え方の源については、私自身突き止められていない。

              幼年時代、少年時代に培った貧しさという記憶のせいなのか、その後のお金に対する不足へのどこかで抱いた恐れなのか。そこは、まだまだ、私自身、自分を見つめなくてはならないようだ。

              ただ、一つだけ救いがあることだけは、書いておきたい。

              貧しさを選択したということは、別の選択をすればいいということだ。

              私は、昨日、
              津留晃一氏のホームページの公開されているメッセージ集
              http://www1.ttcn.ne.jp/turu/29sikounomekanizumu.htm
              《思考のメカニズム》を読ませていただいた。

              その中の、

                 「欲しくない現実を渡された時、即座にその不快感の中で静かに座り
                  『この現実を招き寄せた私の源にある考え方はなんでしょうか』」と
                  問いかけてください。」

              という示唆があり、それに注目して、私なりに実践してみた。
              津留さんの言うメッセージの実践の仕方とは、
              たとえば、
              前述の問いを、自らの心に問いかけてしてみることだという。
              しかし、
              答えを求めてはならないという。
              ただ、そう内部の心に問うことにより、その望まない現実への思いに光があたる。そして、
              いま起きている問題は消えていくという示唆をしている。その導きをしてくれるというのだ。

              私は、津留さんの言葉を信じている。

              昨日、実践してみた。
              寝る前に、自分自身の抱えている問題に、前述したように問いかけて、
              ホ・オポノポノを含めた癒しを行ったのだ。眠りに落ちるまで続けてみた。

              …朝になった。

              冒頭、私が、”今朝、情緒が不安定だった”と書いたが。
              その理由は、確実に何らかの効果が出てきた現れなのではと思った。
              考え方を変えた問いかけにより、
              信念とまで化した「貧しさへの思い」が足元から、
              やや、ゆらいだのではないだろうか…と。

              まだ完全に、崩壊まではしていないが、
              そのバランスのゆらぎにより一時的に不安定になった。そのせいだろうと、ふと思っている。

               

               

              posted by: fukugakuru358 | 002/心について | 14:56 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              ☆予告なのかもしれない…
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                昨日のブログで”☆OKYAKU 2013.2”で、
                後半に以下の話を書いた。

                「そのなぜ」について、引き続き考えている。

                その内容を、振り返らせていただきたい。
                ****************************************
                一昨日(20日)、確定申告のため青色申告会に行ったときのことだ。

                控え室は、とても混雑をしていた。
                30分ほど過ぎた頃だろうか。

                そこへ、中年の女性がやってきた。私の目の前に空席があったからだ。

                顔は、どう見ても下町のおばちゃん風だ。手には、派手な時計をしている。
                時計全体が、小さな宝石類で覆われたなんとも趣味の悪い腕時計をしている。
                右手も見えた。薬指と小指にルビーのような感じの指輪が二つ。腕にも、何かのおまじないかと言いたくなるようなブレスレットを三重に巻いている。そこそこ豊かなのだろうと、
                それ以上の関心は、特に、持たなかった。

                しかし、相手が私を放っておいてくれなかった。
                そのオバチャンは、私の席の斜め前にいた女性の隣に座った。文庫本を読んでいる。
                オバチャンの座ったのは、私の真ん前だ。
                持ってきた荷物が、ことのほか多く、アッチでもない、コッチでもないと散々悩んで、
                ようやく落ち着いて座ったかのように見えた。

                そして、まもなく珍妙な事が起きた。

                そのオバチャンが、右手を頬に当てて、何か呟きだしたのだ。
                モゾモゾ言っている。
                最初は、その程度の呟きだった。目を閉じていた私もふと気になって、注意を向けた。

                そのうちに、声が大きくなり、携帯で電話でもしているのだろうかと訝った。
                頬杖をついているように見えた右手に携帯はない。

                「えーっ!ただのツブヤキおばさん…?」
                どうやら、一人で、何か、喋っているのだ。脈絡なく、何を言っているかよくわからない。

                声は、次第に大きくなり、会話レベルになった。そのうち、隣にいた文庫本の女性が、
                タマラズ動いた。アブナイ感じと思ったのだろう。すでに空いていたずっと向こうの席に、
                移動してしまった。

                件の女性は、まだ延々とひとりで、しゃべっている。誰に話しかけるでなく、
                自分で自分に話しかけ、ときどき、「笑っちゃうのよ。○X△□○…」などといって、
                ケラケラ笑っているのだ。
                まわりのただならぬ空気と不穏さでおかしくなった。

                ***********************************************
                という内容だった。
                昨日の筆記をほぼ全体をトレースさせていただいた。

                そして、
                このオバチャンの登場の意味について、その後も、ずっと考えさせられている。
                わからない…。

                それはまるで、
                かつて、
                故・寺山修司氏が率いていた天井桟敷の演劇の中で表現されていた
                シュールなパフォーマンスみたいなものだからだ。

                こうしたことは、私たちの日常の中で突如として現れるが、
                私たちの心のあり方と無縁で起きていない。

                必ず意味があるものだと思う。
                私自身の心の内奥の投影なのだろうと考えている。

                つまり、私の潜在意識は、
                このオバチャンをして、私に託した何かの示唆なのだと思っている。
                単なる偶発的に現れた迷惑オバチャンなどでは決してないのだ。

                ちゃんと理由がある。
                理由があるというより、ある結果をもたらすための予告みたいなもので。
                もしかすると、原因の表示であるのかもしれない。

                なんらかのシンクロにシティを引き起こす原因かもしれないと、
                今朝、ふと思った。まだ、その結果は、示されていないが。

                注意深く、私の身の回りに起こる、奇妙な変化に注意してみたいと思う。

                その何かについて、わかったとき、お知らせしたいと思う。

                 

                 

                posted by: fukugakuru358 | 002/心について | 12:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                ☆心の制限
                0

                  私の関心は、いま心の制限について向けられている。
                  今日のブログは、何か、こうしたら良いというような処方的なことは、とても言えないと思っている。まだ、これからその心の制限とどう向き合うかを、考えていかなければならないというその途中にあるので。

                  私の個人的な話をしておきたい。このブログで、1−2度触れたような気がするが、私は、限定的だが、やや神経質な面がある。強迫観念というやつだろうか。少年時代に見たある検証実験的なTV番組がキッカケで、とんでもなく病的な神経質に陥ったことがある。その心に占める比重は、
                  現在では、ほとんど解消されたが…。多感な中学、高校ぐらいまでは、自分でも病的だと感じるほど、公的な器物に触れることができなくなった。たとえば、電車の吊り革のグリップ、ドアノブ、そして公衆電話など。それらに触れるのは、かつて、多少パニックに近いものがあった。
                  自分でもそれはおかしいと思いつつのことでもあった。
                  余談だが、あえて言えば、それは家族関係などの不調和というものが神経質を招いたと、今では理解している。
                  そのTV番組は、無批判な少年の心に、あまりにも科学的な側面を全面し土足で踏み込んで、
                  走り抜けた。たしか20分程度の番組だったかもしれない。遠い時代の記憶で。
                  もう思い出せない。
                  いま思えば、内容があまりにもエゲツナかったといまは思う。
                  あらましを述べておこう。
                  あるシーンだけを今でも覚えている。

                  当時、一般的だった純和風の家庭内トイレだ。
                  手の清潔を守れということが、おそらくテーマだったのだろう。
                  番組は、ナレーション形式で、このようになるということを誇張して見せていた。
                  トイレを済ませた設定で、手についた汚れを灰のようなものを付けて検証してみせたのだ。
                  指の先に汚れが付いたとして灰をそこそこ付けて、
                  人がトイレを出てから、いかに、手を洗うまでに、
                  家庭内のあちこちにものに触れるかを示した。
                  それは、意外なほど多く、幼い少年の私には、大変、ショックだったのだ。
                  不潔というものについて、その後、私は、成人し社会に出てしばらくの間、
                  自身を守る強迫観念に苦しんだ。

                  いまも完全には、拭い去れていないが、その時の不潔に対する恐怖心は、かなり収まっている。
                  どのようにしたかといえば、あえて不潔なものに触るということ、それに耐えるということだった。その逆説的な荒療治は、決して全ての方に有効だとは言えない。保証しない。
                  真似すべきでない。
                  ただ私は、無理せず、必要に迫られて、触れてみるということをしたが、
                  やはりそれで、すべてが一夜にして解決するほど、甘くない。
                  いまでも、基本的には、吊り革や公衆電話には、積極的には触れないし。触れないようにしている。どうにも、仕方がないときだけだ。ただ、その荒療治が、結果、「絶対に、触れられない」から、なるべく「触れたくない」というレベルにまでは、心が改善した。
                  私は、あえてそのことに無理していない。
                  今後もそうだ。ただ、私の強迫観念は、かなり限定的だということに気がついている。
                  自分の理屈が成り立つと消滅する部分もあるからだ。

                  社会に出て、大丈夫なのだと、自分に言い聞かせが出来てからだが。いまでは、
                  レストランや居酒屋などのコップについて、平気で受け入れられたりはする。
                  そこから分かるのは、自分に向けたそのダメだとする根拠が、実にいい加減で、
                  怪しいということだ。
                  もちろん、不特定多数の人が明らかに口にするコップがひどく汚れていれば、
                  それは、チェンジしてもらう。神経質かどうかに関わらず、誰でも、基本的には、無理だろう。
                  そのまま受け入れ、使うことはできないと思う。それでいい。
                  事前に、確認するという作業も私の習慣としてある。

                  私は、なぜ自分の恥ずかしい部分を晒してこのようなことを述べたか。
                  これも、個人的な部分では、自分のメンタリティを変える作業の一つだと思っているからだ。
                  あえて、自身を晒してみるという療治として。それはともかく、
                  第一義的には、心の持つ制限や制約について考えたとき、
                  私がいま晒したことも、場面や状況の違いがあるにせよ、大いに関連していると思うからだ。

                  たとえば、いまお金が足りていないという思いに苦しんでいれば、その制約は、ある種の強迫観念を生み出す。体現の仕方、表れ方、自分の取る態度は、病的な神経質さと、経験の仕方や見かけは違うが、心に作用するものは、同じ根っこにあるような気がしてならない。そう思っているからだ。

                  無責任な言い方で、しかし本気で言うが。としても信じていただかなくても、
                  全く結構だが。
                  その心の制約についての解決策として、ある直感が働いている。
                  そして今後、それをこのブログでも突き詰めていきたいと思っているが。

                  当面、2つの解決策があると思っている。
                  今の時点での話だ。今後、変わることがあるかもしれないが。
                  と言い訳もしておこう。

                  一つは、
                    畏れているモノに、あえて開き直って向き合ってみる。

                  もう一つは、
                    神秘的なものを信じるということか。

                  と思っている。
                  誤解のないように言っておくと、神秘的なものをというのは、
                  目に見えないものの力のことだ。決してオカルト的なことも含めて言っているのではない。
                  正確に言えば、潜在意識(神)の力の思惑であり、
                  すべては、自分の内面の世界がストーリーとして創り上げたものという観点というようなものだ。
                  今日の時点では、これ以上は言わず、曖昧にしておきたい。

                   

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                  ☆無限の力と波長を合わせる方法
                  0

                    私たちは、常に、私の内なる無限の力の恩恵を受けている。だが、私たちは、それに気づいていないのだ。極めてありふれた一例を挙げれば、私たちは、自然に歩るくことができる。この一見、何でもない歩くことのメカニズムに多大な無限の力の作用が働いている。
                    それを悉く挙げるつもりはないが。

                    赤子が立ち上がる。やがてその時期がくれば立ち上がる。
                    そして、赤子は、意識せずに立ち上がろうとする。足腰にまだ力がない赤子は、
                    すぐに転び、それでも再び、掴まり立ちしながら、立とうとする。
                    生まれながら肉体的な困難を伴わなければ、環境から得た学習も含めて、
                    原則、立てるということを、潜在的な能力を持っていることを
                    知っている。歩くための一定のプロセスを経れば、くり返し、くり返せば、
                    いづれは自由に歩けるようになると私たちは本能的に知っている。

                    私たちの多くは、この歩くということに、何ら恩恵を感じることなく、
                    極めて当たり前のようにして、日々の中で、その動作を行っているが、
                    とんでもなく大きな力が背後で働いていることについて異論なく、
                    誰しも気づいているであろう。

                    そのメカニズムなど語るつもりはないが、あえて持ち出したのは、理由がある。
                    私たちは、恩恵を感じることなく、無限の力を活用し、その無限の力を借りるべく、
                    無意識レベルでコンタクトをとりながら、それを実行しているということだ。

                    その時、無限の力が働くために、必要な条件があり、それを唯一求められているということに注目したい。

                    それは、ただ一点。

                    「くり返す」ということだ。

                    何度も、何度も、意図的に「できないこと」あるいは「できていないこと」、
                    「できて欲しいこと」をくり返したことが、やがて無限の力に浸透し、
                    作用させる原因となる。

                    そして、これは、肉体的なレベル、あるいは物理的な現実のレベルだけのことでなく、
                    むしろ、目に見えない意識世界の中で、同じように作用しているということを
                    忘れてはならない。

                    当ブログで、一週間ほど前の”☆なぜ、ビジュアライゼーションなのか。”に
                    引用させてもらった「ザ・シークレット」(ロンダ・バンーン著 山川紘矢+亜希子・佐野美代子[訳] 角川書店)に登場するデニス・ウェイトリー博士(NASAで宇宙飛行士の研修を担当した経験も持ち、作家であり、講演家。)のメッセージを思い出してもらいたい。

                    そもそも、肉体的なレベル、あるいは物理的な現実のレベルというのは、私たちの意識世界が、
                    投影されたものだからだ。
                    それを受け入れられれば、ウェイトリー博士の次のメッセージは、わかりやすいだろう。

                      「あなたが視覚化するとそれが現実化します。そこがマインド(頭)の
                       興味深いところです。
                       私達はオリンピック選手にレースで走る姿を頭の中でイメージ
                       してもらいました。そして、彼らをとても精密なバイオフィードバック
                       装置に繋げました。彼らがトラックを走っているのと、同じように
                       イメージしていると、驚く事に、その時と同じような順番で実際に
                       筋肉が使われたのです。」
                         (「ザ・シークレット」p134より)

                    ここから分かることは、
                    すべて私たちの身の周りに起きていることは、
                    私たちの意識の中で起きていることを後付けで、物理的な現実を通して観ているか。
                    体験しているのだということを識ることになる。

                    今日のブログのタイトルは、”☆無限の力と波長を合わせる方法”とさせていただいた。
                    その答えは、

                       「くり返し」にある。

                    そもそも学習の原則は、そこにすべてがある。通り一遍で済ましても、多くの場合、知識にならない。

                    目に見えない世界で、たとえば、困難な状況にあり、不安や心配、怖れなどに苛まれ、
                    望まない状況を変えたいというようなとき、その結果としての物理的現実を変えるためには、
                    望む思いやイメージの「くり返し」が有効だということだ。

                    ジョセフ・マーフィー博士の次の言葉が、とても示唆に富んでいる。
                    あえて引用しておきたい。
                       「マーフィー 世界一かんたんな自己実現法―驚異のイメージング」
                         (ジョセフ・マーフィー [著]  富永 佐知子[訳]きこ書房 p155より)

                       「安らぎや富、心の支えをまわりに求めてはいけません。すべてを生み出す
                        全知全能の力は、あなたの中にあるのです。心の安らぎは、政府や団体、
                        まわりの人から与えられるものではありません。
                        何かを日常的におこなっていると、それが潜在意識に組み込まれます。
                        歩く、泳ぐ、ピアノを弾く、キーボードを打つ、車を運転する…
                        こうした動作を習得するのと同じです。何かを考えたり続けたり、
                        繰り返し行なったりすると、いずれ潜在意識に植えつけられ、自然にできる
                        ようになります。」

                    とある。



                    posted by: fukugakuru358 | 002/心について | 12:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    ☆心の力、その威力
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                      個人的なことを言わせていただくと、
                      本日の午前中のあるひと時、なぜか、急に心がひどく乱れだした。
                      一種の暴走に近い状態だった。
                      理由は、まったくわからない。それを冷静に見ている自分もいるので、
                      大したことではないのだろうと思うが。
                      ただ、心の内部から何かしら正体のわからない胸騒ぎ的な焦燥感に追い立てられた。
                      それでけで、体が火照りそうな感じにさえなった。

                      落ち着きを取り戻そうとするが、なかなかできない。

                      そして、
                      いますぐ考えなくても良いことを、あえて考えてみたりもした。
                      その間に、ちょっとした不安もよぎる。

                      「遺憾な…」と思いつつ、

                      ほんのわずかな瞬間だが、振り回された。

                      「焦るな!」と自分に言い聞かせてはみるが、あまり効果がなく、
                      全体としては、落ち着きを失っていた。
                      気を紛らわそうと、
                      いつも行っているイメージングに集中してみようとしたが、、
                      ほとんど身が入らず、
                      上の空といった感じで、上述の思いに阻害された。

                      それは、小一時間、前後ほど続いて、
                      いまは、ようやく落ち着きを取り戻した。

                      心の「コムラ返り現象」とでもいうべきものは…。

                      一体、どこから来るのだろうと、思ってしまう。

                      これまで知らずに培ってしまってきていた
                      私の心の中に巣食っているネガティブな思いたちの造反でもあるのかもしれない。

                      こうしたことは、意識や心というものを持たなければ、生じないことなのかもしれない。

                      改めて、心の力、その威力について、思う次第になった。

                      「宇宙を味方にしてお金に愛される法則」(ボブ・プロクター[著] 岩元貴久[監訳] きこ書房)の、p92には、
                      次の引用がある。

                         「ナポレオン・ヒルの名著『思考は現実化する』(きこ書房、田中孝顕/訳)
                          には、『心で考え、信じることができれば、それは成し遂げられる。』
                          と書いてあります。」
                           (「宇宙を味方にしてお金に愛される法則」より)

                      という示唆がある。

                      ボブ・プロクター氏は、自身の著書で、こうした言葉を引用したくなるほど、心の力というものを信じているのだな…と、改めて思う。そうした賢者たちの言葉を貰い受けているうちに、
                      気がつくと、いつしか私も、その言葉の意味するところをいよいよ感じ入っている自分を思う。

                      午前中の私自身に起きたちょっとした「心のコムラ返り」の状態から、
                      いま落ち着きを取り戻し、心の力に驚きつつも、
                      この著書の中から、学ぶべき言葉を見出したので、それを引用させていただき
                      それを記述しておきたい。

                         「さぁ今から、心のスクリーンに裕福な自分をイメージして、それが現実になる
                          ことを待ちましょう。たとえどんな事態に陥ったとしても、裕福な自分の
                          イメージを保ち続けることです。どうにも悪いほうにむかっているとしか
                          思えない出来事が、続けざまに起こることがあるかもしれません。それでも
                          そこであきらめてはいけません。裕福な自分のイメージを失わず、
                          今自分が経験している困難は、その後自分が経験する素晴らしいことの前に
                          起こっている一時的な試練だと解釈することです。」
                           (「宇宙を味方にしてお金に愛される法則」より p92−93)

                      ボブ氏は、ダテで、こんなことを言っているのではないだろう。自らそうした苦しい体験を持っているからこそ、こうした言い回しをすることに、心遣いができるのだろうと思う。

                      私は、この言葉に、とてつもない勇気をもたらしていただいている。感謝だ。

                       



                      posted by: fukugakuru358 | 002/心について | 13:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |