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☆無意識に見ている夢
0

    あなたは、ほんとうに、
    いま夢見から目覚めているといえるのだろうか…。


         「いや、今日は夢など見なかった。ただ自然に目覚めた」

    というかもしれないし。あるいは、

        「目覚ましが鳴って、半ば強制的に、仕事や学校などもあることだし、
         仕方なく起きたにすぎない。」

    というかもしれない。

    その状況は、人それぞれ数多で、たとえその状況がどうあれ…、
    私たちは、似たり寄ったりの朝を迎えて、
    夢見の現から目覚めたように確信しているかもしれない。

    その意味で、
    確かに、私たちは朝を迎えたはずだし、眠りの中から、
    それなりの状況において、ほんとうに目覚めたはずだ…。

    いまこうしてリアルな現実の中で、考えたり、なんらかの行動しているし…。
    「あなたは目覚めているだろうか…」などと問われることがバカバカしい。

    と、あなたは、きっと言うだろう。

       「そうだ!あなたは、確かに目覚めた!」

    だがほんとうのところ、
    あなたは夢見の中で、ただ目覚めたに過ぎないということには、
    同意できないし、そもそも気付いていない。


    それでもあえて言おう。
    私たちは目覚めてなんかいない。

    どんなに、自分が向き合っている現実が、どれほどにリアルであっても、
    見て、知って、マインドで感じ、さらに触れてその感覚がどんなものであろうとも、
    しかも、今、痛みがあろうとも、あるいは快感があろうとも、
    いまなお、私たちは、意識が創り出した夢見の世界の中にいる。
    たとえ信じられなくても。

    あなたは、こんなことを言えば、
      「冗談じゃない。何をバカなことを言っているんだ。くだらない!
       オレは、昨日と同じように、満員電車に乗り、仕事へ行き、嫌な上司につべこべ
       言われたり、不快な客にも我慢して耐えた。昼や夕方には飯も食い、
       同僚たちと話もした。それなりに、心地良い疲れもした。そこのどこか夢見なんだ。
       バカか、お前は!ふざけんな、アホ!」

    と、私を激しく叱責し、侮蔑を述べるだろう。

    なお、ひるまずに言おう。
    それでも、私たちは夢見の世界の中で、すべてをリアルに体験しているのだ。


    今日のブログでも、
    私たちの意識世界についての理解の一助となる
    素晴らしい題材として取り上げるが。

    前回の当ブログ(☆の・ようなもの。(セパレート・リアリティ part2))で紹介した
    ホラーゲームの「P.T.(サイレントヒル)」は、

    【ここはガッチマンのあれだ】氏のYouTubeにおける実況形式の動画

    【実況】P.T.(サイレントヒル)がめっちゃ怖かった
    https://www.youtube.com/watch?v=nDSSFUJbXdg

    より、引用させていただいた。

    上記、実況動画のゲーム制作者たちは、
    おそらく、気付いていないのだろうと思うが、
    偶々、当該ゲームが、
    意識空間の一端を、見事なほどに象徴的に表現し、
    なぞらえていたと私は思っている。

    このP.T.(サイレントヒル)のゲームは、
    演出的な意図による恐怖で彩られた通路を通り抜けることで、
    Door to Door を繰り返し、繰り返しさせることで、
    また同じような現実を恐怖体験をさせているが。

    このDoor to Doorの象徴が、私たちの日頃、日常だと感じているものの仕組みのなぞりなのだ。
    このゲームは、ただただ恐怖を感じさせるためのゲームとしてだけ意図して創られたものだ。

    私たちの現実には、さまざまな多様性があり、
    時に、恐怖もあるが、喜びもあるし、笑いもある。
    幸せだと感じる瞬間もあるし、一方で、退屈も、不安も、底知れぬ悲しみも。また
    怒りに震えるその瞬間もある。さまざまなシナリオが私たちのために用意されている。
    良いことも、悪いことも含めて、総じて、日常は、基本的には、穏やかである。

    この私たちが体験するあまりにリアルな現実について解釈においては、
    偉大なる先人たちは、すでに理解していたのだ。
    それが、アカシック・レコードと呼ぶ、人類の運命の記録の概念だったりもする。

    現代でも、代表格を数名挙げれば、
    ヴァジム・ゼランド氏の著書「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」
    (ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)

    で、概念としての「バリアントの空間」の考え方があり、

    バシャールの言う、「次元やパラレルリアリティ」などの概念などがある。

    もう一度、話は元に戻るが、
    ”私たちは夢見の世界の中で、すべてをリアルに体験しているのだ。”
    と上述したが、

    私が言う、
    世界を理解するための根拠は、
    これら先人たちを含めた形而上学的に目覚めた人々の示唆にあるように、
    意識世界の概念が、リアルな物理的な現実世界を映し鏡のように構築している
    という概念に基づく。


    この概念に沿うとき、
    私たちは、常に、どんな状態にあっても、
    それが自ら制限を設けた夢見世界の中にただ在ることに気付かされる。

    文字通り、多くの場合はそうなのだが、
    私たちが意図せず、無意識に流されるままにあるときは、特に、
    無意識なままに深く潜在する私たちの思いがけない願望に同調した世界を夢見するようだ。

    私たちは、夢見の中で、リアルな体験をしているような錯覚の中にいるらしい。

     


     









    posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 19:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    ☆の・ようなもの。(セパレート・リアリティ part2)
    0

      前回のブログの続きだ。
      【ここはガッチマンのあれだ】氏のYouTubeにおける実況形式の動画

      【実況】P.T.(サイレントヒル)がめっちゃ怖かった
      https://www.youtube.com/watch?v=nDSSFUJbXdg

      から、気づきを得られたというあたりを記述したい。

      この 「P.T.(サイレントヒル)」の怖さの要因は、
      一切の情報がないままに、底知れぬ恐怖にさらされ、しかも
      そこから抜け出せないで、それも際限のなく続くループによる怖さなのだ。
      つまり次に何が起こるか分からない心理的に追い込まれる怖さが際立っているのだ。

      だが、このループという現象そのものは、前回のブログにも、例として書かかせていただいたが、
      私たちが日常を繰り返し重ねる「日々=毎日」と似ている。

      私は、この「P.T.(サイレントヒル)」のストーリーの展開の中から、
      それをまず先に感じた。

      私の考えたことは、私たちは、日々を無意識に、「昨日(きのう)」とほぼ同じような段取りや行動、またはスケジュールをこなしながら。ときには、若干、別の飛び込みの予定も加わったりするが。それでも、印象としては、昨日も今日も世界が、まるで変わったようには、
      感じることがない。だとしても、
      わずかな違いのあるパラレルな世界を、実は、私たちはシフティングしている。

      そして、基本的には、
      パラレルな世界をシフティングしているという認識を持っていないだろう。

      私たちの物理的な現実世界には、
      時間があって、シフティングの産物として時間が過ぎていく。
      その意味において、
      過去があり、現在があり、未来があると、
      それを私たちは、直線的に時間が過ぎているというように受容している。

      このことについては、
      仮に、時間が直線的に過ぎているように理解していたとしても、
      バシャールは、それは、すべて幻想だと指摘する。

      過去も、未来もない。
      あるのは、ただ、今(現在)が、「ここ」が、あるのみで。

      すべては、同時に「ここ」にあると述べている。そこへの理解があるとき、
      パラレルな概念を生み出す。

      ここまで記述してきて、以下、あらぬ方向へ展開してしまうので、
      何度か書き直した。どんどん話が大きく拡がってテーマから離れていくので、
      意図的に戻させてたいただこうと思う。

      ****************

      この「P.T.(サイレントヒル)」は、私にとって、束の間の恐怖心を喚起させられたが、
      一方で、パラレル・リアリティについて、改めて意識させられた。

      特に、キッカケとなったのが、

      ゲーム開始の冒頭画面に、おどろおどろしく
      以下の英語の字幕が現れるところだ。
      その日本語訳は、

        「気をつけろ、そのドアの隙間は
         分断された現実(セパレート・リアリティ)だ。」
           
      (【実況】P.T.(サイレントヒル)がめっちゃ怖かった
            https://www.youtube.com/watch?v=nDSSFUJbXdg より)


      だった。

      私の印象は、「セパレート」という言葉で、一つの人生ライン上の枝派的なことを
      イメージしたが、
      恐らくゲーム作成者には、パラレルという概念を受容するまでの理解は、
      そもそもなく、後付けで、「セパレート・リアリティ」と表現したものだろうと思う。
      つまり、
      もし直線的に感じられる人生の時間軸が、あるとき、思わぬカタチで、
      セパレートして、そこから脱落していく恐怖心をイメージさせるために煽ったものの
      ように思えてきた。

      多分そうなのだろうと思う。

      そう思うのには、一定の根拠もある。

      同じ、ストーリー上の字幕に裏打ちされているからだ。

         「俺なのは俺だけだ。
          お前なのはお前だけか?」
            
      (【実況】P.T.(サイレントヒル)がめっちゃ怖かった 
                      https://www.youtube.com/watch?v=nDSSFUJbXdg より)

      ストーリー上のメッセージとしては、大変面白く興味を惹いたが、
      この言葉の根源的なところには、onenessの理解はないように思えた。

      私自身が、一見、難解なメッセージを装ったこの言葉の出来ばえで、
      直後のまだ充分に咀嚼仕切れていないうちに受けた印象を語ったが、
      時間が経ち、いまさまざまな分析を行っていくうちに、私なりの整理がついてきた。

      ゲーム作成者には、ストーリーを展開させる上で、
      仮定でパラレルな世界をイメージしてみただけのようだ。
      だが、一定の気づき、あるいはパラレルな世界観に一定の関心はあるのかもしれない。

      つべこべと難しいことを書いてきたが、
      以下の引用をしておきたい。

      私たちが、「いわゆる世界」についてを理解する上での重要な視点だと思うので。

        「大昔から人々は、世界が二通りのふるまいをすることに注意を払ってきた。
         一方では、あらゆる出来事が自然科学の観点から物質的に多少とも
            理解できるものであるのだが、他方では波動エネルギー的な神秘現象に
            遭遇すると、自然科学の法則が当てはまらなくなる。なぜリアリティの
            さまざまな現象をひとつの知識体系にまとめることができなのだろうか。」

           (「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著]
              ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)
             《現実は、二つの側面をもつ二元鏡》p117より)

      本日の取り留めもないブログを終えるにあたって、
      率直に申し上げおきたい。

      「P.T.(サイレントヒル)」のPS4のための体験版は、
      いわゆる体験版のようだが。それでも、あまりに怖すぎて、おもしろい。
           
      それが率直な意見だ。





      posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 09:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      ☆セパレート・リアリティ
      0

        そのゲームに、思わず惹きつけられた。

        はっきり申し上げておく。私は、ゲームは基本的に嫌いだ。
        だから自分でゲーム機器類を買って、
        あえてすることは今後も、きっとないだろうと思う。

        仮に、いま誰も使用することがないゲームが、たまたまそこにあって、
        誰かに遊ばれることを待っていたとしても、また、
        私が、とんでもなくいま暇であっても、あえてゲームをする気にはならないタイプで。
        私なりの思いに耽る方を選ぶだろう。
        といって、私は、ゲーム否定論者ではない。ただ、やらないだけだ。

        それでも、私たちの存在そのものが、意識しようが、しまいが、
        いま夢の渦中にあって、私たちは意識の中で、鏡に映った人生ゲームを楽しんでいる。
        その意味で、
        ゲーム嫌いの私でも、こちらの人生ゲームには、非常に強い関心を持っている。

        ちょっとこんな前置きをしておきたかった。
        私は、私の思うところがあって、ゲームの中に潜んでいる世界観については、
        大変興味を持っている。

        私は、自分ではゲームをしないから、どうしてもYouTubeなどの「実況系」の動画を観る
        ことになる。その動画を見る際にも、ある種、理屈っぽい哲学が私なりにあって、
        その心の琴線に触れるものでないとならない。

        一昨日、その琴線に触れるゲームの「実況」と出会った。

        実況では、「弟者」氏の動画が人気だ。私も、あの渋いドラマチックな声が好きだ。
        その日、
        たまたまCMなどでも話題になっていた「Watch Dogs」の実況”#7”ぐらいを観ようと思って、
        YouTubeを開いた。
        その動画を再生中に、ブラウザの右側のサブネイルの画像にふと目がいって、
        気まぐれに、そちらの(動画の)再生に気持ちが移ってしまった。

        動画のタイトルは、
        【弟者】P.T.【私の声が聞こえますか?】
        https://www.youtube.com/watch?v=P9P46bUl5xQ

        だった。サブネイルの写真には、沈黙を具現化した森の絵があった。
        そのサブネイルの不思議なトーンに誘われたというほうが正しいだろう。

        導入から少し奇妙な感じがした。【弟者】氏が編集で入れたものだろう。

        赤字で、
        「心臓が弱い方は視聴を控えてください」とある。

        そういう系かと思った。
        多分、グロ系で、最後まで見ることはないだろうと、そのときは思った。

        一応、
        簡単にストーリーを言っておこう。

        ある独房のような部屋の中で、「私」である主人公らしき人物が目覚める。
        なぜか倒れている「私」の傍らでは、
        交尾するゴキブリが大写しで、画面いっぱいに移動している。

        主人公の「私」は、誘われるように、ひとりでに開くドアの向こうへと、
        一歩踏み出す。ゲームの始まりだ

        そのドアの向こうは、薄明るい。
        狭い通路の壁には、灯りが煌々と点り、
        壁に飾られた不自然にたくさんある絵を際立たせている。
        部屋の様式は、どちらかと言えば、ちょっとしたセンスさえ感じさせるが…。
        どうも奇妙だ。

        どこか向こうからラジオかTVらしき音声が、わずかに聞こえてくる。
        近づくと、通路のそこかしこで、腐った食べもののカスや薬類、
        さらに空き瓶などが散乱してひどく汚れている。

        ラジオからは、どこかで惨殺事件があったことを告げている。
        壁や通路には、無数のゴキブリが這いずっている。すべてがどこかアンバランスで異様だ。
        そして、途中にもいくつか閉ざされたドアがある。または、勝手に開くドアもある。
        通路を突き進んできた向こうに、この通路を抜けるらしいドアがある。

        「私」は、ただ、突き進むしか方法がない。
        戻ることもできない。
        促されるまま、ドアを抜けると…。

        なんと、

        いま通り抜けてきたはずの通路へ、再び、やってきたではないか。
        どういうわけか、振り出しに戻ってしまったのだ。
        すべてが、また同じように一から始まる。

        このままでは、
        永遠に抜け出せないのではと思えるループ体験を幾度もするのだ。
        その度に、選択の余地がないように、おぞましい恐怖が「私」を待っている。

        そのループは、ループごとに、
        何かが違う体験をすることになる。
        その未曾有の恐怖は、何が現れるかわからない不安に彩られている。

        ストーリーは、ほぼこのような感じだ。
        ただ淡々とした通路が続くが、それが、妙に怖いのだ。

        きっと何かが待ち構えているはずだと思うが、その期待を見事に裏切る。
        そう単純ではない仕掛けがそこにあるからだ。
        いつも、何か、わからない恐怖が潜んでいる。
        その手法が新しく、観る者を、ズルズルと引き摺りこむ。
        心理的にゲーム者を追い込んでくる手法が優れており、かなり怖いと思う。
        夜、ひとりの部屋では、とてもできない。

        実況する「弟者」氏も、演技でなく相当に怖がっている。
        あの低く目の声が、「ヒョェーッ」と何度も裏返っていた。

        私は、このP.T.「サイレント・ヒル」を面白いと思った。
        弟者氏によれば、冒頭の紹介で、これはPS4のためのただの体験版だという。

        非常に内容のクォリティは高い。

        私の今日のブログは、ここまでが前段なのだ。

        ほんとにこのゲームから、知り得たことは、ただらならぬことだった。

        私は、このゲームの「実況」で、本編があるのかと探してみた。
        それはなく、
        別の実況者

        【実況】P.T.(サイレントヒル)がめっちゃ怖かった
        https://www.youtube.com/watch?v=nDSSFUJbXdg

        で、ハンドルネーム
        【ここはガッチマンのあれだ】氏の実況に、実は、「もの凄く痺れた」のだ。

        そのことがあって、今回、このブログをどうしても書く気になった。
        このゲームから、いくつかの学びがあったのだ。

        シーンの冒頭、【ここはガッチマンのあれだ】氏は、
        ゲームをセットアップする。


        その淡々とした声の調子や話し方などから、彼が、知的な人物だと理解した。

        ならば、上述の実況者【弟者】氏とは、
        この同じゲームを、どのように「実況の違い」で魅せてくれるのか、楽しみ半分で、
        比べてみたかったのだ。その比較は、私にとって、かなり大きな収穫を生むことになった。

        話を元に戻そう。

        (【ここはガッチマンのあれだ】氏)の最初の言葉は、

           「いきなり始まったね…」

        と、クールに感想を述べる。

        【ここはガッチマンのあれだ】氏は、
        ゲーム上に、日本語字幕が表示されるように設定していたらしい。

          「カチッ、カチッ」と、キーを叩く音で、
        しばらく設定が続く。

          「カチッ、カチッ」
          「カメラはOKと」
            「……。」
            「戻ると…」


        ここから、単調な金属のはぜる「ボワーン」という音とともにゲームが始まる。

           「なんの説明もなしに、始まるね。」  (【ここはガッチマンのあれだ】氏の声)

        ゲームの画像に、次の英語で字幕が現れる。
        日本語訳は、

          「気をつけろ、そのドアの隙間は
           分断された現実(セパレート・リアリティ)だ。」
        と。


        私は、この字幕を読んだ瞬間に、グルグルと私の思考が始まった。
        すでに「弟者」氏の実況の体験で、このゲームの内容を知っている。

        私は、パラレル・リアリティの世界の理解に足を大きく踏み入れたように感じたのだ。

        ゲームの英語字幕は、さらに私を痺れさせた。
        日本語訳は、

           「俺なのは俺だけだ。
            お前なのはお前だけか?」


        という表示がされる。何とも難解な言葉だが、グサリと私の心を突き刺した。

        【ここはガッチマンのあれだ】氏のゲーム実況は、どんどん進む。
        主人公の「私」が目覚めた部屋から、誘うようにひとりでに開かれたドアを、
        さらに大きく開けて進み出る。最初の狭い通路に出る。

        そこで、
        【ここはガッチマンのあれだ】氏のゲームの操作の仕方を同時進行で、
        確認する実況が、2〜3ある。

          「ダッシュとかは、なし…。……。あ!押し込みで、アレか…。主観というか…
           ズーム。で…。何の情報もないからね。」


        と続く。ゲームは進行している。
        この【ここはガッチマンのあれだ】氏の「何の情報もないからね。」の言葉は、

        後に、大きな意味を持つ言葉となる。

        彼自身が何気なく発した言葉だが。
        そこに重要な意味があったことを、
        彼が、気づいたか、どうかは…分からない。

        本日のブログは、思いのほか、かなり長文になったので、
        そろそろ今日の分のブログを締めくくりたい。

              …で、結論を急ごう。

        この 「P.T.(サイレントヒル)」は、
        同じ恐怖の現実がループすることによって、恐怖心を増している。

        ループする現実に、「何の情報もないからね。」が、

        恐怖の現実に陥ったときに、
        再現なく、恐怖心を煽る 
        という
        示唆を、このゲームは表現して見せた。

        私は、このゲームを考えれば考えるほど、私たちの日常とオーバーラップしていた。
        私たちの日常は、原則、恐怖心や不安を煽ることはない。

        学生なら、朝、ほぼ決まった時間に起きて、簡単な朝食を取り、いつものように、電車に乗り、学校へ行く。それなりにカリキュラムを終えて、クラブや、塾、あるいはまっすぐ家に帰るなど、
        さまざまだが、ほぼそれを繰り返す。

        勤め人も、ほぼ同様の毎日を繰り返す。だが、仔細に毎日を振り返れば、
        似ているような毎日でありながら、決して、同じではない。出会う人も、同じでありながら、
        異なる場合もある。

        パターンは無限にあり、それを私たちは体験している。

        私たちは、実はパラレルな世界を体験しているということに気付かないだろうか。

        「同じような(毎日)」という括りはできても、実は、どんな毎日も、
        昨日とまったく同じではない。全く、異なっている。絶対に違う。
        私たちの形而上学的な世界は、バリアントな空間に、パラレルな世界として、微妙に異なるシナリオの羅列を無限に秘めている。

        「P.T.(サイレントヒル)」は、小さなゲームの世界に、
        実は、
        ループする現実のモチーフを使って、パラレルな世界の概念を示唆しているのだ。

        このゲームの場合は、恐怖に舞い込んだという設定で。

        で、私の気づきは、まだ不十分だが、この本日のブログのタイトルである。
        「セパレート・リアリティ」についても、触れたいが、明日以降とさせていただきたい。


                                ――明日以降に続く。

         

         

         

         

         

         

         

         

        posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 19:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        ☆留め置くことのできなかった夢見
        0

          2-3日前に、とるに足りない1シーンの夢を見た。あえて言うほどの夢でもなく、
          何のための夢?と訝りたくなるような…。その程度の夢で。
          事実、目覚めた時は、「何なの」つまらない夢だったなと思った。

          本当にどうでもいい夢だった。

          だが、それでもちょっといつもと違っていたのは、
          目覚めた瞬間に、

          「はっ」としたことだった。

          その夢見と目覚めで体験する現実の切り替えに、「何か」を気づきかけたということが、
          これまでの夢見体験と大きく違っていたのだ。ならば、その夢の内容を覚えておこうとした。
          なぜなら、このブログに書きたいと思ったからだ。

          実際、その日はしっかり覚えていた。

          いつでも思い出せるほど、しっかり記憶したはずだった。(…メモしておけば良かった。)

          しかし、日々のしなければならない雑事などに追われ、すぐにブログを書く手間と時間が作れなかったこと。さらに言うと、
          夢に関連して、気になった「はっ」とするほどの、夢から得た”気づきつつ”あった内容が、
          「一体、何だったのか。」その「はっ」とした一瞬を手繰るうちに、
          肝心な夢の内容をすっかり忘れてしまった。

          何とも、情けない話だ。

          それでも、その夢見の印象の欠片(かけら)から、ヴァジム・ゼランド氏のリアリティ・トランサーフィンシリーズで展開されている、概念上の形而上学的な世界、バリアントの空間に
          ――その刹那、私の魂が夢見空間に居たのだなというちょっとした妙な感覚が持てたこと。

          厳密にいえば、それを何となく実感したように思ったのだ。
          もちろん、向こうを張って、自信をもって言えるようなことではなく、

          ただ感じただけで。
          いわゆる自分にとって都合の良い錯覚かもしれない。

          つまり、
          夢と目覚めとの境界にある橋渡しの直後の不思議な「気づき」の感覚は、
          私の魂が、ゼランド氏の言うように、バリアントの空間を自由に飛び回っていたのだなというような感覚を味わったことにある。

          魂が自由に飛びまったと大層にはいうものの、その実、一時的に記憶に残った夢の記憶は、
          1シーンだけだったし。

          まったく他の夢をついでに見たという記憶もない。

          なのに、夢と目覚めの橋渡し的な直後に得たものは、
          何かしら、魂が自由に飛び回っていたのだというどこか曖昧な印象だった。

          それは、
          私の魂が、バリアントの空間に無限にある人生ラインのセクターを、
          まるで夢見のインデックスのほんの一部をチョイ見し、スルリと掠めたのだろうという感じだ。

          私の前述の「『はっ』とするような何かの気づき」とは、
          その感覚のことだったのかもしれないと、今、このブログを書いていてそんな気がしている。

          いずれにせよ。
          私は、今となっては、夢の内容を忘れてしまったが。

          その後、私が振り返って考えたことは、
          夢見が、私の物理的な現実とは、大きくかなりかけ離れた、
          しかも、特にこれといった特徴もなく、面白くもない夢を見たということだった。

          その上で、
          再び、私の意識は、昨日に続く、ごく当たり前の現実化された人生ラインに戻ってきて、
          毎日とそう変わらない同じようなことを繰り返す「選択」をしたということだ。

          私の魂は、バリアントの空間を自由に飛びまわりながら、
          結局、いつもの日常とそう変わらない「選択」をしたという事実を
          いま体験している。

          おそらく、バリアントの空間で夢見した「とるに足りない夢」の現実化は、
          敢えて選択しなかったという事実だけが私に残った。

          蛇足ながら言うなら、

          私の魂が、バリアントの空間を自由に飛び回っていたという(=あいまいな感じだが)感覚は、
          他の人生ライン(セクター)の選択も、潜在的には可能性として”ある”のだということと知らされたこと。

          それでも、比較において、ほぼ現状を維持するかのような――物理的現実を継続する人生ラインを、そのままただ選択したのだなという印象を抱いた。

          重要なのは、私がバリアントの空間で見た夢も、物理的世界に現実化されて、どれほどリアルにある目の前の世界も、「私」の意識の世界の中で起きていることであり、すべては幻想に過ぎないということだ。


           





          posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          ☆「欲していないものが起きる」とき
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            私たちは、物理的現実に、私たちの望んでいるものを現出したいと願う。
            あるいは努力する。
            だが、その思いや目論見は、概ね期待通りにいかない。

            むしろまったく逆に
            「望んでいない現実」を招き、これでもかという具合に不快な現実を味わうこともある。

            自身のことでいえば、私は、この春に、お金にまつわる綱渡り状態を毎月のように体験するなかで、いまそれを振り返りながら、つくづく気づかされたことがある。

            しばらくぶりで記述するこのブログに、そこから得たものを書いてみたいと思う。
            詳細を書くことは避けさせていただくが、一例で言うなら、お金に不足を感じているとき、
            しかも、そこに不安や疑念に捉われたフォーカスが向けられている間は、
            望まないことが次々からへと押し寄せてくることを、文字通り体験的に知ることになった。

            私が、実感として知ったことは、この物理的現実に関して言えば、
            極めて単純な物理法則が支配しているということに気付かされた点にある。

            それは、このブログで何度も触れてきたが、

               「原因」と「結果」の法則が、それだ。

            この法則は、どんな状態や場面にも、その法則が貫かれているという気づきだ。

            例えば
            時間と空間といういわゆる物理現象でさえ、
            見方を変えれば、
            時間は、「原因」で、空間はその「結果」だとみなしてもよいと考えている。

            バシャールは、時間は、そもそも幻想で、シフトに付随するものだと言う。

            ならば、やや乱暴かもしれないが、
            ”時間”そのものをシフトとみてもいいと思う。
            そして、
            シフティングした”結果”として、一つの「空間」が生じるという理解。

            私は、物理学者ではないので、論理的にはデタラメで間違っているのかもしれないが。
            そこはお許し願いたい。

            ただ、そういう見方をしても、
            文系的な解釈から言わせてもらうと同様に見ても良いのでは、と勝手に感じている。


            「原因」と「結果」の法則に話を戻そう。

            私は、この3Dの物理的現実を、形而上学的な概念から、
            心の内面的な状態が、外的世界(物理的現実)を構築しているという立場を支持している。

            その意味で、私たちの心の状態こそが、外的世界の「原因」となり、その反映を「結果」として、物理的現実として投影しているのだと信じている。

            このことを踏まえたとき、次のような考えが浮かぶ。

            私たちの願望は、心次第だと。

            そして、この立場をとる限り、それは正しい。

            実際、私たちは、望む現実を創出するために、念じ願う。

            心に望む現実を描き、
            それを「原因」にして、外的世界に望む結果が得られるはずだから。

            ところが、実際は、簡単にそのように、ならない。
            このブログの冒頭に書いたように、
            むしろ、リアリティがあざ笑うように、全く「欲しない現実」をもたらすことがある。

            いや大概は、
            そうした場合が多いに違いない。

            しかし、上述した「原因」と「結果」の法則は、それでも見事に働いているのだと
            指摘しておきたい。しかも私たちの願うままを忠実に、希望どおりになのだ。

            このように言えば、異論があるだろう。
            欲していない現実に翻弄されて、何が、希望通りなのだと言えるのかと。

            その指摘は、まさしく、その通りだ。

            しかし、それでもあえて私は、見事に宇宙は「原因」と「結果」の法則を、
            私たちのために、正確に返してくれているのだと指摘しておきたい。

            この指摘の意味を記述する前に、

            トランサーフィンシリーズの第4巻
            「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)のp25の後半から次の箇所を引用させていただきたい。


              「人は『自分の欲するとおりに』なるよう努力する。そして
               『顔を向けたほうへ行く』『押せばたわむ』という簡単な世界に
               当てはめようとする。しかし、なぜか世界はそれに従おうとはしない。
               それどころか、人が顔を向けた方向とはまったく別の方向へと
               運ばれてしまうのだ。」

            この引用には、私たちの願望に対する鋭い洞察と示唆が含まれている。
            しかも、

               「『押せばたわむ』という簡単な世界に当てはめようとする。」

            という記述には、上述した「原因」と「結果」の法則についてさえ、
            なぞりをイメージしやすいように物理的に説明している。

            「望まない現実」「欲しない現実」が起きるためには、そもそも、すでに私たちが「原因」創り出しているということだ。

            つまり、
            望む現実を願った時点で、宇宙に「原因」を表明し、創出を願ったということだ。

            そして、
            宇宙は、あまりに原理原則どおり、私たちの願うとおりに「心の内面」を現実化してくれる。
            そもそも望むことがなければ、
            宇宙は、何らかの結果をもたらすことがないのだ。

            それが結果として、
            私たちの意識が「望まない現実」「欲しない現実」になってしまうのは、私たちの潜在的な「心の状態」そのものに実は、問題があるからなのだ。

            あるいは付随して、トランサーフィンの各巻がシリーズの中で指摘しているように、
            過剰ポテンシャル、重要性、依存関係等を生み出し、それが過剰な期待に対するバランスをとろうとして、逆の反作用の結果を見せつけてくることにある。

            ゼランド氏は、同著の中で、次の指摘をしている。

              「もしリアリティのふるまいが期待にそぐわないのであれば、
               別のアプローチを取らなくてはならないだろうということだ。」

                (前出:p25−26)

            その方法として、次のような示唆もある。


              「請わず、求めず、苦労して勝ち取らず、創り上げるのだ。」
                     (前出:p163)
            と。


             





            posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 18:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            ☆見ているモノ
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              そこへ行った日から2週間になった。

              前回のブログ(見ろよ、青い空)で書かかせていただいた新丸子
              および武蔵小杉方面に出かけた日のことだ。

              昨日、また、どうしてもそこへ行ってみたくなった。雨が降っているが。
              いま、小ぶりになったり、一時はスコールのように激しく降ったりする。
              今日はやめようかとも思うが、ふと雨が小やみになったりする。そして、
              「たぶん…、大丈夫だろう…」で、電車に乗る。

              傘はない。

              天気の次第は、見込みだけで掛けに出た。
              しかし、
              梅雨があけ切らないこの時期は、予想はまったく当てにならない。
              概ねハズレる。

              自由が丘で、電車を乗り換えたあたりから、
              雨脚が急に強くなった。
              だとしても「大丈夫!」だと思うようにした。

              chokosou01.jpg

              chokosou08.jpg

              前回 同様、新丸子で電車を降りると、
              やや雨の勢いが落ちてきたので、駅構内で、空を見上げて、
              しばらく様子を待つことにした。

              ふと商店街の向こうにセブンイレブンが見えた。

              「コロッケ買おうか…。」

              「セブン」の店に近づくと、道路を挟んだ右手向かい側に、ファミリーマートがあった。
              「ならば…」と、”ファミコロ”を選択した。

              駅構内を飛び出した直後、雨の勢いが増してきた。

              コロッケを店の軒下で食べたあと、駅構内に再び駆け込んだ。

              暫く、待っていると、雨が小やみになった。雨がやんだわけじゃない。
              ほとんどの人は傘をさしている。

              「さあ、行こう…」
              なぜ、また今日も来たのか。ワクワクしたからだ。
              もう一度、訪ねてみたくなった。天気はともかく。

              目の前の向こうに、豊かさの象徴の超高層のマンション群が見えている。


              chokosou06.jpg

              ふと、思う。

              私のここへ来たいという意図は、私の意識の中で、いま、まさに
              現実化し具現化した瞬間なのだ、と。

              量子力学的な概念で言えば、私や、私自身をとりまくすべての現実や状況も、
              そして低く雲が垂れこめた天を貫くように立ち並ぶ高層群も、
              私の意識下の創造の産物なのだ。
              すべては、私自身の意識の中で起きている。それは、物理的に文字通り存在し、
              観察できるかどうかは、重要な問題でなく、むしろ私自身の選択の問題なのだと。

              ほぼ前回と同じようなコースを辿って、歩き始めた。神社の辻の傍にあるファミリーマートで、
              本日、2個目のコロッケを買った。前回、買い食いした店だ。今日は、揚げたてで、特に旨い。
              これも、ちょっとした楽しみ。

              chokosou02.jpg


              今回、再び、この町へ来たのは、もう一つ理由があった。
              ある気づきがあったからでもある。それを、肌で感じたいと思ったといってもいい。
              前回、携帯で撮った写真データを眺めているうちに、その気づきがあったのだ。
              写真データのほとんどは、超高層マンションのデータが中心で。
              いろんな角度やいろんな方面で、撮りためたものだ。


              chokosou03.jpg

              その一部を前回のブログに掲載した。今回も、
              やはり、その超高層のマンションを中心に、ある意図をもって、撮影をした。

              まず、気づきについて記述したい。

              言ってみれば、極めて単純なことなのだが。
              改めて、「そういうことか…」と思わされた内容だ。
              写真データを眺めながら、
              それぞれのカットは、もちろん私自身が、折々に撮影したものだが。

              仮に、もし、
              それらを、同じ対象物についての、
              いろんな人々の、それぞれの視点の違い、理解なのだと受け入れるとするなら、

              私たちは、その対象物に、一体、何を見ているのだろうと、考えた。

              答えは、こうだ。

              見ている対象物(= フォーカスしているモノ)は、同じものでも、
              人それぞれの、さまざまな状況を反映した意識状態の反映の現れなのだということ。

              つまり、
              私たちは、私たちの創り上げた概念を見ているに過ぎないということだ。

              このとき、フォーカスするモノの大切さを悟った。

              chokosou07.jpg

              この日、撮影するに当たっては(=前述したある意図とは)、

              超高層のマンションの下の豊かさを象徴した緑あふれる街並みや
              周囲の発展状況などに、フォーカスしようと思ったのだ。

              chokosou05.jpg

              chokosou04.jpg

              それは、私たちの目の前に起きたこと、必ずしも良いことばかりでなく、

              一見、どんな不快な場面、どんな状況にあっても、
              「豊かさ」にフォーカスするその選択、その権利は、
              私たちの内側の意識に中にあるということで。
              つまり、豊かさを選択できるチャンスは、
              常に用意されており、与えられているということを意味する。

              それは、
              「豊かさ」を肯定するとぃう意味があり、結果、
              「豊かさ」を許容することに通じる。




              posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 16:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              ☆見ろよ、青い空
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                14日(土)は、素敵な朝だった。
                人生でそう多くない、晴れやかでクリアな朝だった。

                その日、例によって、高層階の踊り場で、いつも見るその方角を見た。
                私は、自分の立ち位置から見るそこは西方面だとばかり思っていたが、後に知ることになるが、
                そこから見る景色は、地図上は、少なくとも30度ほどやや南の方角だったのだ。この話は、以前、このブログでも、数回、その場所について取り上げさせていただいた。

                そして今から、2−3ヶ月ほど前に、その場所が思いがけないところだということがわかった。
                このブログでは、やや美的表現で、上弦の月の上半分を象(かたど)ったようなデザインの超高層の建物として表記したことがある。いま、訂正して言っておこう。
                その時点では、イメージの中で、やや誇張しすぎた面があった。その後、yahooの素材写真などで、実物を確認したところ、
                そんなにロマンティックなデザインではなかった。その場所から見た私にとっては、
                ただ面白い超高層の建物だと思ったのだ。なぜか、私の興味を惹いたのだ。

                kousou.jpg

                そこがどこか分からないときは、謎めいて、
                「その場所は、どこなのだろう…」と、
                何度も、思い込みの方角から割り出そうとしたが、前述したように、
                私の位置が、全方位に対して、正対しておらず、実際より反時計の方向であったため、
                それに気づくまでに、かなり時間を要してしまった。


                そして…。4月頃、漸く、その場所が特定できたのだ。


                いつまでも引っ張らずにその場所の地名を言おう。
                それは、武蔵小杉の超高層群の立ち並ぶ新開発の地域だったのだ。
                そのマンションの一つに興味を持ったのだ。


                場所が特定できてからは、
                何度も、そこへ行ってみたいと思った。
                というより、その場所は、実は、私にとって、懐かしい場所の一つでもあったからだ。


                白状すれば、そこは、
                5年くらい前まで、私と友人が飲んだ後、必ずと言っていいほど、酒の勢いで、
                夜な夜な遊び歩いた場所の近くだったからだ。
                しかし、今は、飲む機会を失って、久しい。
                不仲になったわけではない。
                お互いに「阿吽(あうん」)の呼吸のようなもので、
                金の切れ目が縁の切れ目。私の懐は、火の車。
                もはや馬鹿をやっていられなくなっていたし、お互いに頃合いを悟ったというあたりだ。


                当時、その場所は、ほぼ深夜に出向いていたので、私たちが見ていたのは、
                星空と無機的に輝くネオンの灯りに限られていた。
                私たちの関心と言えば、話声もほとんど聞こえないほどの、
                ディスコサウンドがざわめき、客が酔いしれて歌うカラオケタイムの音、
                華やかに着飾った南国のカタコトで話す花のような女たち、甘い独特の香水、
                白い歯を見せて笑う声だった。
                それらのすべてが、三流以下の安モンの退廃文学で、独特の世界だった。


                その店に入る前に、
                ふと少し目線を上にあげていれば、その超高層の建物のシルエットに気付いたかもしれない。
                しかし、
                まったく目に入っていなかった。彼も、きっとそうだったろうと思う。
                あるいは、その建物ができたのが、その後だったのかもしれない。
                文字通り、私たちは夢見をそのままに酔いしれていたのだ。


                その時を懐かしさで引きずっているため、どうしてもその場所に、行ってみたいと思ったのだ。


                14日の朝、空を見上げると、あまりにも天空が輝いて青く澄んでいた。
                私の気持ちを後押ししてくれた。それに、今日は、梅雨のひと休みのこの機会を逃すと、
                また次のタイミングを捻出するのも、億劫になると思った。
                とにかく、勢いで電車に乗った。


                30分ほどで、着いた。

                marukoekiyori.jpg

                私は、
                武蔵小杉駅の一つ手前の新丸子で降りた。
                前述した、夜な夜な遊び歩いた店があった地域だ。


                この町は、昼は昼で、決して大規模ではないが、とても情緒のある商店街の一群が、
                駅周辺に密集している。心を癒すような、不思議な魅力がある。
                それは、それで、私のお気に入りの町の風情を感じていた。



                ここに降りた理由は、
                冒頭書いた、超高層の建物が、ここから見るのが、見やすいと判断していたからだ。
                Google Mapでも確認済みだった。
                私は、携帯のカメラで、数カット撮った。それが、添付の写真だ。


                このブログで勿体をつけて言うほどの超高層の建物ではないだろう。
                だが、私には満足だ。来てよかったと、まず思った。

                shinmaruko.jpg


                私と友人が夜な夜な罰あたりに眺めた大鳥居も、懐かしい。


                ここから、超高層の建物が並ぶ地域に、武蔵小杉まで、ひと駅分を歩いた。


                途中、ファミリーマートで買ったファミコロがやけに旨い。
                天気もよく、からだは汗ばんでいる。「あー、これで好いんだ。」
                今は、謎めいていた超高層の姿、建物を前に、心が躍った。


                ついに、その超高層群の地域へ辿り着いた。

                首が痛くなるほど、見上げた空は高い。建物の麓の周辺には、天を隠すように、
                歩道は樹木の葉で覆われている。なんて美しいんだ。

                musashikosugi.jpg

                私は、なぜここへ来たか、分かったような気がした。
                それは伏せさせていただくが、大満足だった。


                ふと、空を見上げながら、
                青い空…、

                そして容赦なく照りつけるお天道さまに感謝だ。

                何とかなる…という言葉があるが、

                真底、気楽な気分で居られれば、
                この言葉は、案外、深い力があるようだと悟る。


                誰しも、振り返ってみればいい。
                そのときは、確かにもう駄目だと思いたくなるような、
                大きな困難に見えた状況だが、
                気づけば、どんな苦境も乗り越えていたりするからだ。
                そんなとき、意識の深いところで「何とかなる」が、大きな力を発揮するようだ。

                もっとも、また新たな困難はやってくるものだが。
                それは、今を生きている最高の証なのだ。

                posted by: fukugakuru358 | 009/ネガ・ポジ | 21:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                ☆muteki
                0

                  このブログを見ていただいている方の中には、
                  「GTA5」をご存じの方が多少はいるだろうか…。

                  アメリカのゲーム『グランド・セフト・オート』(Grand Theft Auto、略称:GTA)の
                  そのシリーズのことだ。
                  正直、言うと、私はゲームが全く苦手だ。基本的に好きではない。
                  2−3分やったら、もうどうでもよくなる。

                  固より、ゲーム音痴なのだから、私が、『グランド・セフト・オート』について語る資格は、
                  全くないと思っている。
                  語れば、すぐにボロが出るので。その意味で、ほんの触りだけ。

                  私が、今日のこのブログを書こうと思ったモチーフレベルで、
                  感じた重要なポイントについてだけ触れたいだけだ。

                  私には、このゲームについて、全く知識がないのだから、ウィキペディアから、
                  簡単な説明を引用しておこう。

                  グランド・セフト・オートシリーズ
                  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA#.E6.A6.82.E8.A6.81

                    「『グランド・セフト・オート』(Grand Theft Auto、略称:GTA)は、
                     アメリカのゲーム制作会社・Rockstar Gamesが発売したコンピューター
                     ゲームのシリーズ。架空の街中で突然人を殺害したり、車を盗んで走り回るなど、
                     犯罪を中心にした放埒な内容が特徴。2013年9月時点では、全世界でシリーズ
                     累計1億5000万本の売り上げを記録[1]している大ヒット作品である。」

                                               (ウィキペディアより)

                  とある。

                  私がこのゲームを知ったのは、数週間前ぐらいだった。
                  YouTubeの動画で、おもしろゲーム実況者の紹介動画で知ったのだ。
                  なぜ、
                  このゲーム紹介を見たかというと、
                  スピリチュアルな理解として、私たちの人生で向き合う現実は、
                  「人生はゲームである」ということと大いに関係しているからだ。

                  大いなる内なる自分に仕向けられた、制限だらけの物理的な現実を生きる
                  エゴの自分自身を解釈するとき、

                  コンピュータゲームの作中人物が、ゲーム上のさまざまな展開で、
                  文字通り、振り回され、闘ったり、乗り越えたりというあたりが…。

                  そこを、
                  あえてかなり乱暴な言い方をすれば、私たちの人生も、所詮、こんな感じなのかなと、
                  ちょっとした感覚を持つからだ。

                  だから、ゲームをうまくこなすということに関心があるわけでは決してない。
                  私が感じ取ろうとしているのは、いつも、
                  ある意味コンピュータゲームに興じるハイヤーセルフと
                  物理的な現実――3Dゲームのフィールドを生きるエゴとしての自分との
                  対比で見るときに興味を惹く。

                  最近のゲームは、かなりリアルだ。映像が非常に素晴らしい。
                  とても緻密に作られており、その分、製作現場は恐ろしく大変だったろうと、
                  つくづく思う。と同時に、表現は、グロい。

                  はっきり言えば、暴力シーンなどが過激で、酷く生々しく、
                  ここまでやるのかというほどだ。

                  このブログでそれを表現するのも憚るので、とにかく「エグぃ」という言い方で、
                  さらりと済ませたい。
                  そこにフォーカスするのが、このブログのテーマでも、狙いでもないので。

                  前述の「GTA5」に話を戻そう。

                  ウィキペディアなどの説明によれば、
                  「GTA5」は、

                    「オープンワールド型クライムアクションゲームである。」(ウィキペディアより)

                  だとあった。
                  ゲーム紹介の実況動画を見る限り、このゲーム一体、どうなっているのかと、
                  驚くくらいに
                  設定の自由度が高く、さらに、さらに新奇の目を見張る。

                  私の知る限りで言えば、このゲームは、
                  好き勝手に、まるで犯罪者のごとく振る舞えるということだ。
                  それが、既存のゲームとちょっと異なり、びっくりする。

                  自動車やバイク、そのほか、飛行機やヘリコプター、その他、状況次第で軍関係に至るものまで、手当たり次第に奪い取ったり。そして使い倒し、街を荒していく。
                  あるいは、ちょっとした挑戦も行える。

                  その挑戦というのは、はっきりいって、粗っぽく、不毛なものが多い。
                  超高層のビルの屋上から、バイクで飛び降りるだとか。
                  急峻な山の崖から、ロードバイクで、下りるだとか。街中で、銃を乱射するというのもある。

                  とにかく、内容が過激なゲームなのだが。

                  YouTubeの実況ゲーム動画の中に
                  こんなタイトルがある。

                  【GTA5】無敵になって警察と戦ってみた
                  http://www.youtube.com/watch?v=Zx8DieBC4jE

                  だ。
                  この動画を見ているときに、ゲーム実況者の言葉から、
                  「はっ」とする言葉を聞いた。

                  ゲームの主人公には、無敵になる特別な設定があって、撃たれても死なない。
                  あるいは、反撃する弾にもあたりにくくなるのだろう。そんな都合のいい設定があるのだが。

                  このゲーム実況者が、ゲーム主人公に無敵設定をして、
                  街中で警察関係者や軍までを相手に、銃機類を乱射し、自動車を破壊する。
                  応戦する相手を悉くせん滅していくそんな内容だ。12分ほどの実況なのだが。

                  その時に、この動画のUP主が、2分30秒付近で、口走った言葉に、
                  私は、ちょっとした気付きを得て、反応した。ゲームの1分30秒付近から、
                  その流れを、大まかに記述しておこう。

                  実況者:「戦争だ。戦争だ。…。」
                     
                     交差点で、マイケルという主人公が、銃を乱射する。
                     警察関係者らが、この銃乱射男を制圧しようと、交差点に集結してくるが。
                     マイケルは、無敵だ。いま不死身なのだ。

                  実況者:「あ、いけねぇ。(弾が)当たんないねぇ。」
                    
                    ゲームの進行上、武器を交換する設定の画面が出る。再びゲームが、
                  続行され展開される。

                  実況者:「戦争だ。戦争だ。完全無敵ですよ。完全無敵。フッ!フウー!いいねー。」

                    またまた武器を交換設定。武器選びの画面が出る。

                  実況者:「クルマ来ないね。あ、いた、いた。(ズドン!)。ヨォーイッショ!
                       じゃあ、ヘリコプターを撃ち落としましょ!(バリ、バリ、バリ、バリッ!)」

                     命中し、ヘリが空中で、粉々に。
                   
                  実況者:「♪〜、ヘイ、ヘイ! これは未来から、持ってきた武器だ。
                       ド、ド、ド、ドーッ、ハイ、オッケー!」

                    実況者は、怖いものなしで、とにかく無敵の主人公マイケルをコントロールし暴れまくる。

                  そして、次の言葉以降で、私は、気付くことになった。

                  なんと、ゲーム実況者の口から、
                  スピリチュアルな示唆を与える言葉が発せられるのだ。
                  もちろん、本人にその自覚はないと思うが。

                  実況者:「完全に無敵。もう…、つまらないねぇー、これ。もはや、つまらない!
                       ターミネーター、ターミネーター化しているね。」


                  人は、身体を鍛え、知恵を学び、いろいろな力を付け、どんな敵、どんな状況、
                  どんな困難からも、無敵でありたいと思うが。

                  いや無敵になりたいと思って、いつも希望し念願しているが、
                  いざ、それが手に入ったとき、この実況者の何気ない一言は、
                  驚きの示唆だと言える。

                  このゲームについて、あるいは、この実況者についても、
                  私はどうのこうの言うつもりは一切ない。

                  それは、各人が、各様に思えばいい。

                  だが、どんな場面にも、ちょっとした示唆が含まれているものだな
                  ということは言っておきたい。気づくかどうかだけなのだ。

                  昨日、書いたブログで紹介した

                  故・津留晃一氏の「変容」
                  http://www1.ttcn.ne.jp/turu/16henka.htm

                  の中でも、語られているが。

                  スピリチュアルな次元でいえば、
                  私たちは、本来、完全無欠な存在なのだ。無限のパワーを持つ存在なのだ。

                  なぜなら、
                  神(あるいは創造主)が、完璧な存在であるということに異論を唱える者は、
                  まず原則いないだろうと思う。
                  だとするなら、

                  その完璧な存在の神(創造主)が、創ったものが、私たちだとするなら、
                  欠点だらけ、不足だらけだと考えるのは、どう見ても矛盾だ。
                  神が欠陥品を作る訳がないからだ。
                  神(創造主)の創りしもの、神の似姿の私たちは、固より、完璧なのだ。
                  だが、私たちが、無敵なもの、全能を求めて、不足を思うのは、
                  なぜなのか。

                  それは、
                  あえて自ら制限をかけて、この物理的現実にいる必要と理由があるからだ。
                  あえて問題を、ただ問題だらけの世界を「体験」するという理由のためなのだ。

                  それを踏まえた上で、津留氏は次のように述べる。

                    「このままで何一つ問題がないところから創造した、
                     問題の世界が今ここなのです。

                     ここは問題の世界、
                     あなたの人生ゲームを存分に楽しんで下さい。

                     あなたはそのままで何ひとつ問題ありません。そのままで完全です。
                     不完全なあなたこそが、今ここにいる理由なのですから。」

                                     (津留晃一氏「変容」より)

                   




                  posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 17:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  ☆奇妙な動画
                  0

                    一昨日、私の最も信頼している大切な友人より電話をいただいた。
                    話の中で、充分な説明ができなかったことに絡んで、このブログを書いてみようと思った。
                    私は、友人に次のように言った。

                     「津留晃一の言っていることだけど、(私たちの)エゴは、(大いなる自分)宇宙意識を
                      理解できないと言っている。」というようなことを述べた。
                      そっくりそのままの言い方ではではないが、ほぼそのように述べたように思う。

                    その元となっているのが、故・津留晃一氏のWebサイトに掲載されているメッセージ集の中の一つ、
                    「変化」の中の言葉だ。

                       ”ようこそ 津留晃一の世界へ”
                         メッセージ集「変化」より
                          http://www1.ttcn.ne.jp/turu/16henka.htm

                       「あなたという存在は、エゴと、ハイヤーセルフという2つの意識によって
                        構成されていると考えると解りやすいかも知れません。
                        潜在意識と呼ばれているハイヤーセルフと、表面意識と呼ばれている
                        エゴの2人で自分だと思ってみて下さい。

                        潜在意識をこれまで人は理解しようとしてきましたが、エゴの頭脳で
                        理解できるものではありません。
                             エゴに理解できないのが潜在意識なのです。」

                    私たちに内在する無限のパワーをもつ意識(宇宙意識)は、各個人の潜在意識が、即、宇宙意識であり、その入り口ともなっていると理解している私は、津留さんのこのメッセージの指摘を受けて、より理解を深めさせてもらった。

                    もとより、
                    私たちの(顕在)意識は、所詮、限界がある。
                    しかし、私たちは、
                    人生を通じて、日々、ここで、感じ、思い、考えるために、
                    文字通り、すべてであるかのように思い込み、すべてに優先しているかのような錯覚の中で
                    生きることに仕向けられ、慣らされていることにすら気づいていない。

                    だとするなら、それは、幻想にすぎない。

                    意識そのものは、3Dの物理次元の外的世界を五感を通じて、制限だらけのこの物理的現実を「体験」して生きるための、あるいは理解し、認識、合理的な解釈をするためのそういう側面を機能的に受け持ったツールなのではないかとさえ思える。

                    とするなら、

                    意識(=エゴ)それ自身には、もとより制限付きという意味で、私たちの内なる無限のパワー、無限の意識の思惑や意図などは、そもそも理解できない。できなくて当たり前なのだ。

                    やはり一昨日、
                    ある”奇妙な動画”を見つけた。

                    この動画は、
                    なんとも不思議な魅力を持つ動画なのだ。
                    合理的な解釈に支配され、慣らされた頭では、
                    にわかには信じ難いし、「作られたモノ」「ウソ」と言えば、
                    すべてが、それまでの話だ。

                    私は、その合理的な解釈を、端から、決して否定することはしない。
                    そう思うも当然だとさえ思う。

                    ただ私は、この動画が、意図的、作為的なもので一切なく、
                    もし事実であるとするならばという余地を残して、
                    この動画の可能性を受け入れてみようと、単に、思っているだけである。
                    単に…。

                    なぜなら、私は、固よりパラレル・リアリティやバリアントの空間などの概念を受け入れており、
                    その形而上学的な世界感のフィールドをある程度、受容しているからだ。

                    動画のタイトルは、このブログのタイトルの通りで、
                    しかも、冠つきだ。

                    YouTubeの動画で、
                      「世界で一番奇妙な動画」
                    http://www.youtube.com/watch?v=vhAXeO5Z1SY


                    動画は、淡々と、二人のよく似た人物たちがウエストショットで撮影されている。
                    カメラの前で、互いに肩を抱き合い、時に、顔見つめあい微笑んでいる。

                    背景は、どこか高原か、野原のようなところだ。
                    しかも、ともに、
                    はげ頭の男たち二人だ。
                    西洋人にありがちな「かぎ鼻」が特徴で、
                    互いに良く似ている。双子か、兄弟なのか…、

                    あるいは、
                    コメントでも焦らすように、投げかけて触れているが、
                    または親子なのか…。

                    そして
                    映像の途中で、右腕をともにカメラに見せて、
                    同じ柄の刺青を見せている。

                    当初、
                    「何だ…。こりゃあ。」と思う。
                    「何が、奇妙なのか…」と普通に思う。

                    日本語のコメントを順を追って、読まないと、この動画の意味が、全くわからない。

                    そして衝撃的な。
                    一瞬、頭の混乱するようなメッセージが飛び込む。

                       「この二人は親子でも兄弟でもありません…」

                    「はぁ…」と思わせられた矢先、

                       「このふたりは同一人物なのです。」

                    と説明が付く。

                        「…………。」

                    思わず、沈黙する。頭の整理が付かないのだ。

                    コメントはさらに続く、

                       「信じられないと思いますが……。

                        このスェーデン人の男性、ホーカン氏はタイムスリップを体験し、
                        2042年に行ったと主張します……
                        ホーカン氏は2042年の自分と会い、会話したそうです……

                        何か証拠になるものはないかと考えたとき…」

                    と説明があり、持っていた携帯でこのときの様子を撮影したというのだ。

                    この動画を私は、何度も見た。

                    見たあとで、なぜか独特の不思議な感覚に襲われるのが奇妙だと思った。
                    動画とは、本来は、関係ないが、音楽的な効果なのかも…。
                    妙に、後付けのオルゴールのような音楽が合っていて、
                    この奇妙な風景を一層盛りたてていることに気付いた。

                    念のために言っておくが、
                    この動画には、別バージョンがある。

                    ホーカン氏が、カメラ前で、インタビューなのか、
                    回想するように答えている動画もある。

                       本邦初翻訳!!ホーカン氏の奇妙な体験【携帯動画付き】
                        http://www.youtube.com/watch?v=2zh1w3_IKVY

                       だ。

                    こちらでは、
                    なぜタイムスリップしたのか、その経緯が述べられている。

                    また、
                    この動画にあるタイムスリップの可能性については、
                    わずかながらも否定できないとし、
                    物理学者のハンス・カースン博士が、次のように言う。

                       「物理学の法則によれば、理論的には可能だ」 と。

                    私は、この動画を見るたびに思う。

                    肩を組み、笑顔を返す二人のはげ頭の男たちの横顔。

                    見つめ合った横顔のシルエットの特徴的なかぎ鼻に、
                    つい目が行くのだ。

                    どう見ても、同じ形だと。ついでながら言えば、

                    時間軸を同一の直線のラインでしか考えられない習慣に慣らされているなら、
                    この動画の現象は、そもそも理解できないだろう。
                    なぜなら、
                    現在の自分が、過去や未来の自分に合うことは、歴史や時空間を歪めるという、
                    よくありがちなドラマによって、
                    創られた思い込みに慣らされているからだ。

                    逆に、この動画が、仮に真実だとするなら、
                    無限に今、同時にあるパラレルな世界を裏付けることにもなるのだろうと私は思う。

                    いずれにせよ、この動画は、なるほど奇妙だ。

                    エゴの制限付きの解釈で、この動画を推し量るとき、誰しも、
                    「作られたモノ」「ウソ」の方に、すぐに反応が返るだろう。

                    だが、私たちの世界は、本当はエゴの認識では決してできないところにある。

                     




                    posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 21:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    ☆イモトアヤコの人生のミッション
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                      23日早朝のことだが、yahooのトップページのニュースで、
                      ”イモト エベレスト挑戦ピンチ”【2014年4月23日(水) 6時3分掲載】
                      http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140423-00000009-nksports-ent

                      の記事タイトルに、ふと目が止まった。その内容は、ご存知の方も多いと思うが。

                      日本テレビ系「世界の果てまでイッテQ!」(日曜午後7時58分)の企画で
                      エベレストに挑戦するイモトの話だった。

                      私は、この記事を読んで、イモトの”今、ここ”を思うとき、
                      単なる芸能記事というよりは、スピリチュアルな文脈として感じとっていた。

                      この「世界の果てまでイッテQ!」は、私自身のことで言えば、
                      放映初期の頃には、よく見ていた番組のひとつだった。

                      大袈裟なほど太く黒い眉を書き、さらに頬を赤く染めたオブスなイモトが登場していた。
                      初めて、この濃いキャラを見たとき、

                      「何で、こんな顔に…」と、「この娘、見た目のインパクトだけで…」
                      芸風というものを特に感じなかったので。
                      「大丈夫か…この娘。」と正直、思った。

                      何が「大丈夫か」というと、
                      厳しいお笑いの世界でやっていくには、まず話芸に著しいものがないと、
                      ちょっとこれだけではキツイだろうと率直にそう思ったからだ。

                      だが、こちらが案ずるよりも、彼女には案外、強運に恵まれていたようだ。
                      少なくも、番組のコーナーをなんとか現在まで持ち堪えられてきているらしいからだ。

                      その実績もあってか、かつて他局の番組でも、
                      イモトがあのキャラのまま登場しているのを何度か見かけたこともあった。

                      「世界の果てまでイッテQ!」の番組は、
                      個人的には、4年以上前から、諸事情で見なくなった。いや、見られなくなってもいた。
                      その点で言うと番組が、その後どう変化し、進展していったのかは、
                      一切知らなかった。特に興味も持っていなかった。

                      個人的には、その程度の知識で、yahooのトップ記事のタイトルを見て、
                      イモトがエベレスト登頂に挑戦となっていたので、「ふーん。よくやってるな…」と思った。

                      ニュース記事を読んでみるが、どうも記事内容に関心が向かない。頭に沁み込んでこない。
                      それは、それとして、
                      ただ、番組の企画で、イモトは、イモトで、命がけで、過酷な挑戦にあえて向き合って
                      いるんだなとは、強く感じた。感心もしている。大変だなとも思う。

                      と同時に、
                      イモトの人生を私なりに思うとき、ある別の見方が出てきた。
                      それが、前述したスピリチュアルに感じた部分で、私自身なりのちょっとした気づきなのだ。

                      イモトのこれまでの人生の役柄は、運命(人生のライン)によって、
                      ある仕掛けが施されているのだなと、つくづく感じた。
                      それは、かなり巧妙で手の込んだものだとも思った。

                      私の感じたことを以下に書いてみよう。あえて前置きして言うが、
                      私なりの偏った見方であることを事前に申し上げておこう。
                      どう捉えても、皆さんの自由だが。ただし、私がイモトを貶めようというのでは、決してない。
                      むしろ彼女の生き方に、私たちが学ぶところが大いにあると言っているつもりだ。

                      それは、イモトが負っている人生のミッションについてだ。

                      彼女は、本人がどう思っているかわからないが、
                      おそらく、お笑いか、ただ願いとして有名になり、そこそこのタレントになりたいと
                      強く思っていたはずだろうと…。

                      そして、その夢は、
                      「世界の果てまでイッテQ!」の番組のコーナーを持つことで、見事に達成された。

                      彼女の思いの強さは、我々が、彼女の印象から受けるより、はるかに根強くあったものが、
                      いまなお結晶化されつづけ、そこに現れたカタチなのだ。

                      私が今回のイモトの記事を見て、つくづく感じ入ってしまったのは、
                      彼女のミッションが、必ずしも彼女がタレントになるというところとは、
                      別次元にあるのではないのか、ということに気付いた点にある。
                      言い方を変えれば、お笑いタレント(あるいはタレント)である必要は一切なかった。

                      要は、お笑いタレントとしてのイモトの姿は、彼女の本来のスピリチュアルな面からすれば、
                      自身の生まれ持ったミッションを体験するために、
                      どうしても、人生ライン上の当面の一つの近道として、
                      ミッションそれ自体が数多の方法の中から、あえてタレントになることを彼女の意識に
                      選択させ導いたものなのであろうということ。
                      その上で、タレント・イモトを引き上げて、さらに番組を通して、
                      本来のミッションを遂行させることなのだろう。そのように感じたのだ。

                      言わば、タレントとしてのイモトの姿は、
                      ただの一つの通過点的な手段だったのだろうということを私は述べている。
                      もちろんあくまでも勝手に、個人的な見解で言っている。

                      さらに言えば、番組の仕事は、イモト本人の側からすると、
                      おそらく、すべてはタレント業としての仕事を誠実にこなしているという思い込みだけで、
                      頭がいっぱいで。
                      したがって自身の人生への客観視はしておらず、何も気づきはないのだろうとも思っている。

                      こう述べた上で、私が気づいたのは、
                      彼女は、日々、何も意識することなく、ひたすら自身のミッションに導かれるままにある。
                      つまり、
                      彼女にとっては、お笑いタレントの延長線で、いま目の前の仕事していると思っているだろうが、
                      実は、世界をかけ巡るということにこそ、彼女の学びとミッションがあるということだ。
                      そして、そこに、
                      イモトのスピリチュアルな本性の意図とあり様があるのだろうと、そう思えてならない。

                      事実、以前、彼女は、何かの番組でパスポートを見せたことがあるが、
                      そこには、各国のスタンプが余白なく押されていたのをいま思い出した。
                      このことからも、ただのタレントというよりは、もっとそれ以上のものを、
                      そのパスポート意味が、裏打ちし象徴していたように思う。

                      このブログは、イモトを批判しようと思っているのでは一切ない。
                      もう一度、あえて念のため申し伝えておく、その考えはない。
                      むしろイモト自身の活躍があるおかげで、私たち各人の人生のミッションが、
                      見た現象と違うところにあることを気づかせてくれたということを私は述べたいと思っている。

                      彼女の現在までのところの成功は、このスピリチュアルな意図を素直に体現し続けている限り、
                      保証もされているのだろうなとも思う。

                      いずれにせよ。
                      彼女のエベレスト挑戦が、成功のうちに終わってほしいと願っている。

                       




                      posted by: fukugakuru358 | 008/タイムライン・人生ライン | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |