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☆知らなくていい
0

    何かを探している。
    その何かは、私自身の中で、何となく薄ぼんやり気付いているものだ。
    その延長線で、秘かな笑いを求めた。というより、偶然、懐かしい動画をYouTubeの動画で、
    見つけたのだ。

    かつてフジTVで放映されていた「笑う犬」だ。
    「笑う犬」は、ウッチャン ナンチャンの内村氏とネプチューンらのメンバーが軸となって、
    ショート・コントを綴る番組だった。
    おそらく内村氏がもっともやりたい世界だったのだろうと思っている。
    その作風は、どこかシュールな笑いを誘うコントを根ざしていた。
    内村氏は、熱っぽくとても輝いていた。

    私は、もちろん。
    この番組のファンではあったが、その作品の半分くらいは、
    印象としては、あくまで個人的な偏った見解だが。
    正直、シュールな笑いの追求には、いま一つで、終わったようなものも多かったように思う。

    「……」
    前段から、私のロクでもない饒舌が過ぎているように思う。
    このブログは、
    番組評をしたいのではないので、口はばったいことは、この程度にしておきたい。
    としても「笑う犬」の試みは、
    当時としては、斬新で、実験的でもあり、その意味で意欲的で、
    結果、静かに広まり、根強いファンもしっかりいたのだと思う。
    私もその一人だ。

    かつての
    その断片をYouTubeの動画の中から、懐かしさもあって、拾い出していた。
    その中に、
    私が、見た記憶のない
    「笑う犬 ゴールデン通りの人々 」
    http://www.youtube.com/watch?v=9PyV-XgrAZU

    を見て、笑ってしまった。

    だが、このコントをあえて取り上げたのは、
    10分ほどのコントの中に、さり気なく、スピリチュアルで、
    ズッシリした哲学が含まれていたからだ。

    ストーリーを簡単に紹介しておこう。

    このコントは、新宿のゴールデン街のその雰囲気を彷彿とさせる内容だ。

    また話が逸れるが。
    新宿のゴールデン街とは、新宿のコマ劇場(当時)にほど近い小さな辻の一角で。
    小さなスナックやバーが寄せ集まった場所だ。
    私自身も、映像世界に入ったとき、1度か、2度だけ、行ったことがある。

    そこは、
    どんな客も、基本的に受け入れる(たぶん…)寛容な世界だ。しかし、
    只ならぬ場所でもあった。そして日本でもっとも有名な場所の一つでもあろう。

    文学や芸術家、評論家、各種文化人、撮影関係者などを吸い寄せる一角なのだ。
    ここのムードは、ドロドロとしており、ジメぽく、紫煙が漂う空間だった。

    大衆的でありながら、それでいて、
    底の浅い私のようなものには、固より敷居の高い気がしてくるのだ。

    その意味では、私などは、精神的には、すでにはじき出されていたのだと思う。

    新宿という土地柄が馴染めず、嫌いだったということもあり、
    今のいままで、それきり、二度以上は、立ち居ることはなかった。

    私の印象としては、ゴールデン街とはそういうところだった。

    そう前置きしておいて、

    「笑う犬」の件のコントに戻ろう。

    とある錆びれた酒場が舞台だ。

    ナンチャン(南原氏)が、バーテンとして板付きで画面に登場する。

    グラスを磨いている。

    ナンチャンの演じるシンノスケと名乗るそのバーテンの素姓は、
    なかなか売れない歌手であり、
    ここで生活費を稼ぐために、彼は働いていた。
    そして、いつの間にかその月日が、
    10年以上も経ってしまったという設定だ。

    歌手として、いつまでも目が出ないので、シンノスケは、
    故郷の小豆島に帰ろうかといま思い迷っている。

    そんなイントロが、オフのナレーションで入る。
    この店は、
    名倉潤氏が演じるオカマのママの店であり、ストリッパー役のオセロ中島も働いている。

    この劇中では、店はパッとせず、働いていた仲間も居なくなった。
    しかも、信頼の厚かったコミさん(内村氏の役)が、
    何らかの事情で死んでしまったばかりだった。その悲しみに暮れているところに、
    シンノスケは、オカマの名倉ママに、結婚してくれとせがまれる。

    オカマと結婚…。あり得ない…と、シンノスケは迷っていた。

    そこへ、なぜか死んだはずのコミ(内村氏の役)さんが、
    シンノスケの前に、突如現れるのだ。

    シンノスケが、スタッフルームのドアを開けて、カウンターに戻ると、
    なぜか、コミさんが、スッと立っている。

    「あ!コミさん!…、」悲鳴のように。

    コミさんの霊を見て、シンノスケは驚いて
    「ママ〜!」と叫び、部屋に戻る。

    と、シンノスケに好意を寄せるオカマのママが、
    口を突き出して、シンノスケに迫る。 そこで、オフの笑いが起きる。

    私も、笑った。

    シンノスケは、慌てて、オカマのママに、コミさんの姿がそこにあったことを告げて、
    店にオカマのママを連れ出すが。
    その瞬間、コミさんは、もうそこに居ない。

    オカマのママは、改めて、シンノスケに、「コミさんは、死んじゃったのよ」と悟す。

    そして、オカマのママから、貯金があるから、
    ワタシと結婚して欲しいと迫られ、シンノスケは、怒涛のように迷う。

    2分で結論を出してとばかり(コントは10分程度だから)
    彼を残して、オカマのママは部屋に戻る。
    ひとりカウンターの中で、佇むシンノスケの前に、再び、コミさんが、姿を現すのだ。

    ここからのシーンのやり取りに、私が、このブログを書く動機があった。

    ちょっとしたスピリチュアルな哲学が含まれていることに、
    気づかされたからだ。

    「結婚しろよ!結婚!」

    と、誰かが言う。

    「コミさんー!」 シンノスケは激しく驚いた。なぜか、再びそこにコミさんがいるからだ。

    「男と男が嫌だって言うんならよ。お前が女になりゃイイって話だよ。」
    と、コミさんが、訳の分からない理屈を述べる。

    「死んだですよね。」 とシンノスケが言う。

    「死んだよ。」

    「じゃあ、なんでここに居るんですか?」 と戸惑うシンノスケに

    「知らねえーよ。で、おめぇーも
      なんで自分がいまここにいんのか説明できんのか?」

    「そりゃ、そうですけど。」

    「説明できねえだろう。じゃ、おれが説明してやるよ」

    と、コミさんが息巻く。
    ストーリーは、この後も、山場へと続く。

    コミさんのこの後のセリフの中で、シンノスケに、コミさんの姿がみえることについて、

    「おメエーが、見えちゃーいけないものが、見えちゃっているんだよ。
    これは、幻覚なんだよ」


    と、述べ、そのあとも、

    「イリュージョン」という言葉が出る。

    私は、
    このコミさんのセリフの
    「知らねえーよ。で、おめぇーも
      なんで自分がいまここにいんのか説明できんのか!?」

    という言葉に、反応した。

    劇中のウッチャンは、当時、コントのセリフとして、
    笑いを獲るために、ただコミさんの役を徹して演じていたと思う。

    その言葉の意味の深さを考えるというよりかは、
    ひたすらシュールな笑いを獲るために、笑いのために集中していたように思う。

    いま私はこのコントを見ながら、ふと気付いてしまったのだ。
    ウッチャンの劇中のこの言葉にこそ、私たちのあるべき姿の真理が隠されていたということに、
    年齢相応の人生のプレゼントとして、私は、気づいた。

    なんでも、かんでも、あえて
    「知らなくていい」ということをだ。

    「知る必要ないことは、知らなくて良い。」ということをだ。

    なぜなら、私たちは、この物理的な現実に姿を現す上で、
    私たちは、「自分がいまここにいる」その理由を、あえて忘れて、その制限を加えて、
    この物理的現実の世界に登場してきたからなのだ。

    私たちにそれを知る必要があるのなら、そもそものはじめにその理由が分かっていたはずなのだ。
    そのオプションは持って、生まれて来ているはずだからだ。
    しかし、知らないということは、知らなく良いという、前提があるということなのだ。
    そうして、人生というゲームに参加することを同意したきたからなのだ。

    バシャールの言葉を引用しておきたい。

       「みなさんの社会で一番、害になっているのが、
             『簡単すぎてはいけない』という考え方です。」

                   (バシャール・ペーパーバック,茲蝪陦隠毅粥

    私たちは、私たちの深い、深いところでは、その理由を知っているが、
    なのに、
    この物理的現実を生きるためには、あえて忘れてきたのだという見方もある。
    ならば私たちは、それをあえて知る必要は、本来どこにもないのだ。

     

     

     


     

    posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 00:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    ☆見ている時だけそこにある月
    0

      昨年の暮れのことだ。ちょっとした一時的な驚きを体験した。
      もちろん、すべての原因は、自分の注意不足による観察力のなさが原因だった。
      だが、ここには面白いものが含まれていたので、書いてみたいと思った。

      朝は、シンと冷え込んでいた。その建物の14階ほどのところから立ち止まって、
      数分、遠方を眺めていた。
      ほぼ西の方角だ。
      私は、高所が苦手なのに、それでも高所から遠方を眺めるのが好きだという
      矛盾したところがある。その朝、いつものように、向こうを見た。いつもと同じ景色だ。
      私が、ここを特に気に入っているのは、フィリピンのパサイ市ホテルから眺めたときの風景と
      この街、全体の建物のそれぞれの配置や空間の在り方が、どこか似ており好きなのだ。
      その日も、
      特に、どうということのない風景のはずだった。
      あえて違いといえば、
      ほぼ毎日のように、同じような時間帯に、これまで春から夏に眺めていたときより、
      この時期の空気がひと際、澄んでいるという印象が違いを感じさせていただけだった。

      ふと、馴染んでいたはずの景色に、「おやっ?」と思うものがあった。
      その場所から、およそ5Kmくらいだろうか…。

      二つの縦長のビルが二棟、幾分ズレて重なって見えていた。

      その手前のビル屋上付近の上部、片側の一方が部分的に1/4ほどの円弧を描くように、
      デザインされていた建物だった。

         「え…?あんなビルがあったんだ…。ふ〜ん。」と、

      何度も見た景色なので、いままで気がつかないでいたことに独り得心がいかないものの、
      ありのまま事実として受け入れた。
      それから、再び、昼ごろ、たまたまそこに立ったときのこと、

         「あれっ、今朝、見た方角に、あのビルがない…。確か、あのビルのはずなんだが…」

      だったが、よくよく考えてみると、
      このことは、すべてが自分の思い過ごしだったことがわかった。
      いままで見ることのなかったあのビルのデザインも、実は、何のことはない。
      空気の層によるものだった。
      冬は、特に朝方は冷え込んで、空気の層が薄いので、例えば遠くの山の稜線がくっきり見えたりするが、昼に近くなれば、空気の層が暖まって、さまざま要因も重なって働いて、
      見えなくなる道理が働いたものらしい。
      だから、春や夏は見えなかったのも道理だったのだ。それで、納得した。

      私は、物理学者でもないただの凡庸な文系のド素人であるので、事前に言い訳をしておきたい。
      以下に書くことには、表現上、間違いがあるかもしれない。
      ただ、そんなようなことが言われているという程度で、正確性を欠いている点は、
      大いに割り引いて一笑に伏していただきたい。

      先の出来事は、私に別の概念を思い起こさせた。

      それは、
      微小の世界を扱う量子力学と、一方で、私たちの住む世界を宇宙の極大のまでの世界を説明する相対性理論との間で、微小から極大の世界を一つの理論的概念で説明をしようとするがうまくいかないという物理学の世界があって、関連して、
      この世の不思議と曖昧さを含んだ物理的現実について思うことだ。

      理論的統一が図れず量子の世界と概念的になじまない相対性理論の立場をとる
      天才アインシュタインの逸話について想起した。

      YouTubeの動画
      アインシュタインが見ようとしなかった月
      http://www.youtube.com/watch?v=bPB31A7o0Yo

      は、非常に面白い。

      その5分ほどの短いストーリーの一部を、以下に抜き出させていただく。

      ナレーション:
        彼(アインシュタイン)と親しかったアブラハム・パイス教授は、
        こう証言している。

        アブラハム・パイス教授の話:
         「ある日のこと、彼は突然立ち止まって、
         『ねぇ、君。…君はほんとうに、月は、それを見ているときにだけ、
           そこに存在すると信じているのかね。』
          妙な質問だと思いませんか。実は、そのわけは量子力学にあるんです。」

      ナレーション:
        原子核を回る電子。
        量子力学では、この電子の軌道は、測定をしない限り確実に知ることはできない。
        電子の位置は、確立という漠然としたカタチで顕わされるだけなのである。

        こうした量子力学の考え、
        月に当てはめると、不思議な答えが導き出される。
        …つまり、観測者にとって、月は見ているときにだけそこに在り、
        横を向いてしまうと、どこにあるのか正確にはわからない。


      という部分だ。
      ここの件(くだり)には、量子力学に対するアインシュタインの思いがよく表れているように思う。
      とはいえ、
      私は、すでに物理学のド素人だと書いた。私に、天才アインシュタイン博士を論評することなど、
      あまりに恥知らずで恐れ多過ぎて出来ようのはずがない。そんなつもりは一切ない。
      だが、成功法則を様々な本から学ぶうちに、なぜか、量子の世界の概念の奇妙さと出遭い、
      その世界の持つ不思議なフィールドに、惹かれてしまうところがある。
      と同時に、
      一笑に伏していただくそのついでに、あえて言うなら、

      私たちが、フォーカスせず見ていないか、意識していないものは、
      所詮、在っても、無いようなものではないかという思いを、観念的、科学的な裏付けなど一切なく、そう思うことがある。

      平たく言えば、

      誰かを想う。あるいは出会う。だが、その誰かを意識することもなく、思わないという状態がある瞬間(ひと時)は、その誰かは、各々にとって、存在していないのと同じ意味を持つのだなという思いだ。

      世界の裏側に、誰が居ようが、どんな国があろうが、確かに出会い、体験するまでは、
      それは、居ないも同然、無いも同然なのだと思ってしまう。

      もちろん、物理的には、存在しているが。
      そこに意味はない。

      そして、さらに思うことは、それは、”わたし”の意識の中だけで、
      すべて起きているのだという事実だ。

      それは、”わたし”が意識を持ち存在しなければ、全ては、在っても、
      所詮、無いに等しい、と。

      高所の建物の景色から、私に、そんな思いがよぎった。

       

       

      posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 21:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      ☆2013年末に思う
      0

        2−3日前のことだ。まだ暗いうちに目が覚めた。起きるには、まだ早いと思い、
        再び布団を巻き込んで眠りの中に戻った。そのウトウトとした刹那の意識の闇の中で、
        まるで、”どう”と言うことのない夢を見た。

        それは、
        どこかの街のちょっとしたスーパーの前の敷地で。
        駐車スペースのようなコンクリートの空間で。
        小学生ぐらいの子どもたち男女数人が、戯れ走り回っている夢だった。
        全く何の意味もなしていない夢だった…。
        だが、私は、あることに、ふと気がついた。わずかな半濁した意識の中で、
        それに気づいたのだ。

        その前に、
        この風景は、以前に、私がどこかで見たような風景ではない。
        少なくとも、見た記憶がまるでない。忘れていた遠い記憶の断片とも思えない。

        そのビジュアルを説明するなら、
        撮影用語で言えば、スーパーマーケットの入り口を背景に、
        マーケットの外観のほぼ半分ほどを入れ込んで、
        子どもたちの遊んでいるシーンをフォーカスしたフルショットといったところだ。
        カメラ位置も、スーパーの真ん前に、正対にドンと据え置いただけの1ショットのみの
        情景シーンだ。はっきり言って、つまらないシーンだ。

        私の印象から言えば、
        そのスーパーマーケット自体、まったく見たことがないし、
        そのシーンの情報量があまりに少なくて、場所を特定もできない。

        田舎のようでもあるし、下町の都会のようでもあった。
        直感的に確信するのは、未知の知らない場所のようだということ。

        この夢の中でのようなちょっとしたイメージは、
        何かの予兆でもなく、暗示的な夢などでもない。ただ、そう思える。

        そこに、私の気づきがあった。

        つまり、私の潜在意識が見せてくれた空想の町、情景なのだ…と。

        リアリティ・トランサーフィンふう(ヴァジム・ゼランド氏の著書「[願望実現の法則 リアリティ・トランサーフィン2]」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店))に解釈させていただこう。

        私の魂(潜在意識)が夢空間の中で、バリアントの空間を気ままに漂い、
        前述した景色をなぜかフォーカスし、現実化させることなく、
        その1シーンだけ見せたのだ。
        それは、まるでウィンドウショッピングぐらいのこと
        なのかもしれない。

        そのシーンを見て、私の気持ちが、特に、心揺らいだ訳でもなく、
        反対に、癒された訳でもなく、ただその景色を私に見せたのだ。

        意味は、分からない。

        でも、何らかの理由で見る必要はあったのだろう。

        しかし、そのあと目覚めてから、そのシーンについて考えた。

        私たちが、リアリティとして体験し、五感で感じているこの物理的現実は、
        すべてバリアントの空間をひな形として、魂(潜在意識)が現実化させたものだという
        思いを強くさせられた。
        そのバリエーションは、二面鏡、三面鏡の中に見る虚像のシーンと同様に無限数で有する世界であり、その中の微小な差のラインの中で、私たちは、いま在り。
        私たちの創り出した制限を体験しているのだということを思った。
        仮に、どれほどリアルな体感を経験していても、
        すべては自らの波動でシフティングして体験しているイリュージョンなのだ。

        私たちの望む世界は、このバリアントの空間にただ在る。
        あまりにバカバカしいほどのシンプルな真実の中にあるのだ。
        手に入れるためには、ただ、意図して、それを選択すればいい。

        とりとめもなく…、そう思う2013年を終えようとしている。


        posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 19:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        ☆2'51”(2分51秒)のリアリティ
        1

        昨日、ある動画を観た。それはyahooの映像トピックスで紹介されていたものだが、
        YouTubeの2分51秒の動画タイトル

        Homeless Veteran Timelapse Transformation
        http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/others/
        pe2da3b9aadef97770867eae4d74db481

        を、yahooの視点で興味深く記事にされたものだった。
        yahooのこの動画の見出し紹介は、

        ホームレス男性の外見を劇的に変えたら
        http://videotopics.yahoo.co.jp/videolist/official/others/
        pe2da3b9aadef97770867eae4d74db481

        となっている。

        タイトルから、動画を観るまでもなく、
        ホームレスとされる男性が劇的に変わるのだろうという流れは、
        きわめて単純に、
        ある意味、出落ち的な要素で、
        誰にでもすぐに予想できるであろうと思った。

        そして、基本的には、予想を裏切らない事実そのとおりだった。

        しかし、私自身には、それに留まらない付加価値を持つものになった。
        それが、久しぶりのブログを書く動機にもなった。

        一言でいえば、ホームレスとされる人物が劇的変化を遂げたとき、
        予想を超えて私の胸にグッグと来たのだ。

        身ぎれいになった瞬間、
        彼は、スタッフが用意した鏡に自分を映し、自分の変貌に驚き、そして、カメラに顔を向けたとき、

        彼は、微かに口の奥で、「ヨシッ!」と呟くような気合を見せた。
        その刹那の表情を見た時、私の胸に何かが「ググッ!」っと走った。

        この人物が、本当にホームレスかどうかは、その真偽は知らないが。ただそう紹介されている。

        そんなことは私には、どうでもよかった。仮にもし、彼が、実は無名の俳優でも、
        今の私自身の感じた個人的な思いの中では、そこは構わない。

        もっと重要なことが、この動画には、秘められていたからだ。

        率直に言おう。

        この動画で「グッグ」と私の胸を突いた理由を分析してみたとき、

        私が変身前の彼の姿を、無意識に自分自身の投影のように観ているとわかった。

        私は、ホームレスではないが――でも、それは、ある意味、
        私自身の中でしっかり抱きかかえている「心のホームレス」のようなある思い込みと
        その弊害に気づきつつも、
        抜け切れずにいる状態について思い知っていることと関連している。

        「ある思い込み」とは…。

        ”足りていないという思いとその恐れ”だ。言い換えれば、「豊かさ」への信仰の欠如、
        または不信だ。

        この思い込みこそが、物理的に貧しい人を、より、さらに貧しくする元凶でもある。
        なぜなら、
        いにしえより伝えられている言葉で言えば、人は、「与えるものを、受け取るから」だ。

        「与える」とは、原因を意味し、「受け取る」とは、結果を意味している。
        つまり、「足りていない」という思いを心の中に原因として、抱き続けていれば、
        そしてそれを物理的な現実に投影するとき、
        結果は、その「足りていない(不足=貧しい)状態」を返すということを意味する。

           「人に起こることの原因はその人のなかにある。
                               自分に何が起こるかを決める力は自分にある。」

              (「人生の扉をひらく『万能の鍵』」ラルフ・ウォルドー・トライン[著]
                                    吉田利子[訳] サンマーク出版)

        話を元に戻すが、
        前述したように動画の冒頭、みすぼらしい彼(外見上の全体の姿)を見ているとき、
        自分を見ている気がしたのだが。

        それは、普段から、
        あまり自分の身だしなみについては、ほとんど構わない私自身の姿がダブった。
        あえて見苦しい言い訳をすれば、
        それは、私なりに、目に見えない制限や規律にしばられる社会全体をどこか小馬鹿にした
        アンチであり、私の主張のように思っていたものだが、
        それがひどくバカバカしく滑稽なもののように思えた瞬間にもなった。

        彼が、ヘヤーさんやスタイリストの手にかかって、すっかり変貌したとき、
        まるで、欧米の経済界などで、世界を舞台に押し出しを強くみせているCEOのように見えた。

        その瞬間、私が目指しているものが、何であったのかを感じた瞬間でもあった。
        再び、変貌した彼に、自分自身を投影していた。

        手を打つように、「そうだ!これは大切なことなのだ」と思った。

        身だしなみのちょっとした外見は、一つの、ちょっとした変化の差であるが、
        この動画では180度の差だが、コインの裏と表のようでもあり、
        しかし、非常に、非常に大きな意味を持つものなのだと痛感した。

         

        posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 20:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        ☆フェードイン、フェードアウト
        0

          一年ほど前になる。まだ夏の暑い盛りの出来事で、運河沿いの橋を越えて歩いていた矢先、
          不意に、蝶(アゲハチョウ)が、現れて、
          私の周りをしばし掠めるように飛び回り、そして消えたことを書いた。

          そのブログは、以下のタイトルだ。

          ☆サイン
          2012.08.10 Friday
          http://succes-fou.jugem.jp/?eid=341

          その内容で、いまもって興味深いのは、
          さらに、その晩、アルバイトを終えて、帰りの幹線道路を歩いていた時、昼間、そこで蝶を見かけた付近をやや過ぎたあたりで、
          ちょっとした事が起きたことだ。

          夏の季節で、蝶を見かけることぐらいは、誰にでもあるだろう。極めてどうということのない、
          ありふれたことに違いない。
          だが、私には少し違っていたのだ。だからその印象をいまだに強く持っている。

          心の中で、ずっと引っかかってもいたのだ。

          その晩、比較的大きな交差点で、向こうに渡ろうと信号待ちをしていた。
          自動車の行き来は、ポツポツと数台ほどしか走っていない。

          その気になれば、渡れない信号ではなかったが、信号が変わるの待っていた。

          その一瞬、私の前を自動車が、横切った。夜なので、またアンバーな光の中で、
          自動車の色までは、分からなかったが。
          黒っぽい色をしていた。窓が開いていたわけではないが、
          怖いもの知らずな粗っぽい走行で、数人の若者が乗っているらしいことをほぼ直観した。

          その自動車で、最も、注意を惹いたのが。後部座席のガラス窓だった。

          手のひらを大き目に開いたほどの蝶のシールのようなものが貼られていたことだった。

          象徴的に言うが、印象としては、
          再び、昼間と同じように、いま私の前を蝶がすり抜けていったのだ。

          気づきというものは、こういうものなのだ。


          どうとでもとれる。何とも言えない出来事にどう反応するかなのだ。

          私たちの周りで起きたことに、まったく無反応で、何も思わない感性もあるだろうし、
          私のように、そこに意味を見出そうと思ってしまう性分というものもある。
          どちらが、どうということでもない。
          ただ私の性分は、そういう傾向をもっているだけなのだ。

          私は、一年前、それを何らかのサインと受取り、シンクロニシティのようなものだと受け止めた。

          たかが、蝶が現れたことぐらいで、”気づき”だと申し述べていることには理由がある。

          蝶の現れ方だった。それはフェードイン、フェードアウトだったからだ。
          あるいは、カットイン、カットアウトだとしてもいい。
          そのことには、あまり意味がないからだ。

          私にとって、意義深く印象的だったのは、
          蝶が、まるで時空を超えて、空間の中から”ファー”と生まれたように感じたことだった。

          私は、かつて映像の仕事をしていたので、
          フィルムやビデオテープの1コマや1フレームずつを細部で見る習性がある。

          複雑になるので、分かりやすくフィルムで話を進めよう。

          ご存じの方もいると思うが、動画のフィルムのコマは1秒を24分割したその1つだ。
          それは、
          私たちのリアルな現実の1秒を24分割した静止画だ。24分割した分割のその間には、
          実は、フィルムに記録されなかった気の遠くなるような無限の空間があり、あえてフィルムのコマは、
          そこをばっさり24分割したものだ。

          そのフィルムを手にして、1コマ、1コマを見るとちょっとした発見をすることがある。

          動画のフィルムのコマは、同一の視点から、瞬間、瞬間にコマに光をあてて、
          次々にコマのフォーカスを移し替えてみせることで、映像が動画として成立する。

          しかし、1コマは、ただの静止画に過ぎない。

          隣の前後のコマの絵には、通常は、そう大きな違いがない。
          それが、前後の何コマ目あたりから、
          ある風景(またはシーン)に何かが表れ始める。それが、フェードイン、フェードアウト。
          あるいはカットイン、カットアウトであってもいいが。
          こうしてフィルムを通して映し出された映像は、コマを重ねて、重ねて何らかの意味を持つようになる。

          前述した「1コマ、1コマを見るとちょっとした発見をする」と書いたのは、
          あるコマには、特に何もない景色(シーン)だとした場合、次のコマに、いよいよその何かの片鱗が表れる時、
          1秒の24分の1を――つまり時間軸からのちょっとした”かけら”を見たような気になることだ。

          私が、このことをあえて書いてみようと思ったのは、
          トランサーフィンの第1巻を読み返している最中、次の一節に触れたときだった。

             「真空中では何もないところからひっきりなしに素粒子が生まれては
              すぐに消えて行くということも知られている。」
               (「[振り子の法則] リアリティ・トランサーフィン」ヴァジム・ゼランド[著]
                     ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店 p59より)

          という一節だ。

          そして、同じように、
          超美人で、知的な理論物理学者のリサ・ランドール博士のメッセージも私の思いに刺激を与えてくれた。

          ランドール博士は、異次元世界の存在を数式で理論的に証明してみせ、世界の注目を浴びている方だ。

          素粒子の観察中に、あるとき、消えるはずのない素粒子が、消えたり、再び出現したりする矛盾に、
          大いなる疑問を持ち、その”なぜ”取り組むうちに、
          5次元の世界があると仮定することで解決できるとしたものだ。
          博士によれば、
          私たちの棲む3次元(4次元)の周りには、私たちの側からは見ることのできない、
          巧妙に隠された5次元の異次元の世界があるとランドール博士は説いている。

          詳細は、
          YouTubeの動画:理論物理学者 リサ・ランドール博士 来日インタビュー.flv
          http://www.youtube.com/watch?v=arKlj3pJQnc

          にある。

          そうした元量子物理学者や理論物理学者らの言葉を背景に、
          蝶の出現について、個人的なレベルで特異なものを感じたのだ。
          私にしてみれば、
          空間の中から、”ファー”と生まれて出てきたかのように。そんな思いがしたのだ。

          つまり、何もない空間において。
          それは、
          ただ、やたらにむし暑い真夏の昼下がりが何らかの刺激となって、
          それが私の意識宇宙を刺激し、そこでなぜか蝶というものにフォーカスを当て、
          リアルな空間を創造的に突き動かした。

          その因果を受け、物理的現実では思いの波動が物質を集め、蝶を現したのだろう。
          あたかも虚空に手を伸ばして、握りしめた拳の中から、金の砂をさらさらと出すように。

          もう少し俯瞰して思うとき、私たち自身も、
          件の蝶のように、フェードイン・フェードアウトしているようなものだと。

           



          posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 09:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          ☆善悪のけじめ
          0

            成功法則という謳い文句とは、やや異なるかもしれないが、心の制限を外す微力な力になるのかもしれないと、
            ふと思ってキーボードを叩き始めた。
            「善悪のけじめ」という言葉を知ったのは、笑われるかもしれないが、20代前半の頃だった。
            それまでは私は、「善悪のけじめ」というような言葉を意識せずに、
            ただ純で、安っぽい正義感に走っていたかもしれない。
            ドストエフスキーの作品を読み漁っていたときに、この概念としての言葉を知った。
            正確ではないが、多分、「白痴」か「カラマーゾフの兄弟」のシリーズの中に出てきたのじゃないかと思っている。
            私は、この言葉を知って、新たに世界観を広めたように思った。
            すでになくしてしまったが、小さな手帳にメモったことを、覚えている。
            それほど私には、この「善悪のけじめ」という概念が、
            当時の私の意識を大きく前進させ変えたのだ。

            「たとえどうあれ、いづれ糺すべきものはある。」そんな思いを胸に秘めたものだ。

            この「善悪のけじめ」は、いま私たちに制限を加えて、
            押さえつけている目に見えない心のストレスそのものから解放させるための
            一つの方法論のように思う。
            私は、「善悪のけじめ」の必要が、すでに求められ、
            もはや沸点にさえある現象で、それが沸々と現われていると感じている。

            その一つが、「半沢直樹」のドラマが高視聴率を上げている現象にある。
            私の見方は、半沢直樹のドラマは、反権力の世直しドラマだ。

            いわば現代版「水戸黄門」なのだ。
            あの流行している「やられたら、やり返す。倍返しだ!」は、

            水戸黄門で言えば、庶民に悪の限りを尽くし権力を振るう悪代官と戦い、
            その悪代官たちと取り巻きを痛めつけた後で、
            素性ばらしに使う小道具。まさに権力の象徴「葵の家紋が入った印籠」を高く
            掲げる場面に相当する。
            すると、悪事を働いていた、ドラマの都度、登場する諸大名たちは、
            葵の御紋の前で、ひれ伏す。

            ご存じの方も多数いると思うが、劇中で、
            水戸のご老侯は、すでに現役を離れたものの、
            その素性を隠しながら全国を旅する謎の庶民を演じている。

            自らにも降りかかる、悪代官を懲らしめるときに、例の小道具を出す。

            「半沢直樹」は、銀行マンとして、登場する。水戸黄門とは、時代背景も、
            その他の設定の違いがあるが、
            ドラマの展開としては、自らも、銀行という資本の象徴と組織に、
            やはり虐げられたという過去を持ち、彼は、あえてその中枢に入り込んで、
            野心とともに体制への反逆を「倍返し」の言葉に託して、
            復讐を誓う人物として表現されている。

            私にとって、このドラマを見たのは、おとといの日曜が初めてだった。ついに見ちゃったという感じだ。
            「面白い!」に一言に尽きる。ハマったという奴だ。次回も楽しみ。

            しかし、正直、
            あまりに堺雅人の演技があまりに、表情や口調まで歌舞伎のミエを切るようで、臭く、
            あれでカツラを付けていたら、時代劇じゃないかと思うほど、笑ってしまう。

            だが、あれで、なぜか、許せる!

            あの演技で、良いと思ってしまうのだ。なぜなら、
            一見、不動の大きな体制(特に銀行のようにガチガチな世界)の強いものに向かっていく様がやはり痛快なのだ。
            所詮、作り物だとしても。
            中でも、古里を演じている俳優は、ある意味、うまい。あんなに憎々しい演技をするのは、称賛に値する。
            (おそらく、作り物のドラマの世界と実像を勘違いして、実生活では、心ない人から罵声を浴びることもあるだろう。)

            ところで、
            半沢直樹にとっての「印籠」は、どんな相手をも追い詰める隠しもった証拠探しにあると思う。

            私は、上述に「なぜか、許せる!」と書いた。
            つまり、
            堺雅人のあの力み気張った臭い演技でも、許せると書いた。

            その感覚にこそ、今の時代の私たちの気分の一端が表れているのだと思っている。

            日ごろ、私たちの心に鬱積し、ストレスの原因にもなっている抑えつけている感情を、
            誰かの口を通して晴らしたい。
            現実の世界では、自分の生活を守るため、今の地位などを投げ出してまですることは無理だから、
            せめて仮想のドラマの中でも、解消したい。というものを代弁しているのだと思う。

            半沢直樹のセリフ言い回しは、世直しの代弁であり、「倍返しだ!」は、「善悪のけじめ」の別表現なのだ。

            もう一つ、角度を変えた屈折した「善悪のけじめ」の例がある。
            ただ、あまりに、幼稚で、稚拙過ぎるので、その愚かしさにむしろハラタダシクなるというおまけつきだが。
            それでも、「善悪のけじめ」の表れの一例がある。

            それが、オリジナリティの創造力もなく、ただのバカの連鎖で終わっている。
            いわゆる「バカッター」がそうであり、
            アルバイト店員などが、悪ふざけした様子をツィッターにアップするおバカ行為だ。
            コインランドリーの洗濯機に入ってみたり、
            コンビニの冷蔵庫等に入って、その写真ごとツィッターする。
            あるいはピザ屋の厨房で、ピザ生地を顔面に被せるなど、挙げたらもっと多数あるが。

            そこで、
            「またか」「今度は…」というニュースなどの取り上げ記事のタイトルになるように、
            バカの連鎖が続く。

            実は、あの行為にも、「善悪のけじめ」を求める時代の気分がチラチラ覗いているのだ。

            少なくとも行為の実行者たちには、あのような低レベルな行為の背景に、反権力の「倍返し」が隠れていることは、

            気づいていない。それでどころか。稚拙なおバカ写真を見たものを、あまりに不快にさせているため、その本質が、その不快さにすっかり糊塗されてしまっているのだ。

            ただただ、見る者を不快にさせて終わる。
            だから、彼らが単なる「バカッター」で、くくられてしまうのだ。

            もっとも、本人たちに、自分の行為の真の意味には、一切気付くことはないので、
            その理解力も、そもそもないのだ。単に、学校教育の問題点の申し子なのだ。

            基礎学力のない彼等にとっては、本人たちの自己顕示と気分解消だけに、
            浅知恵が使われているため、結局、悪ふざけレベル下で終始してしまっている。
            将来の自分の可能性のリスクを貶めるという想像力すらもてず、
            ひたすら刹那的に流され、結局、哀れ。稚拙さがだけが目立ち、しかも見る者を不快にさせてしまう。

            しかし、彼らの行為は、稚拙、おバカに、豹変してまっているが。
            それでも、

            実は、バカッター自身の彼らでは、一切、思い描けないが。
            しかし漠然と肌で感じつつも、自分の前に立ちはだかる大きな力に対する
            無力感としての「善悪のけじめ」を求める行為の表れでもあるのだ…。
            その象徴なのだと、私は、勝手に思っている。

            もちろん、私は、彼らの気分を擁護する気もないし、
            彼らの行為には、それなりの厳しい「けじめ」をつける必要があるとさえ思っている。

            ただ一方で、意識しないではいられないこともある。

            私の世代が30代か、それを前後する頃、かつての大人たちは、私たちを総称して、
            「シンデレラ症候群」の言葉や「ピーター・パン・シンドローム」などの言葉で評価されたことがある。

            「大人に成りきれない大人たち」を揶揄する言葉だった。やはり稚拙だという評価を含んで言われたことだ。

            そして、笑ってしまうのが、そう評価されたかつての若者が、
            いまこの社会の各層で、大人を演じている。立派な社会的な地位やそれなりの公的な力を持つ者も、多数いる。

            そのことを振り返るとき、
            私は、ふと思う。

            「バカッター」の稚拙な子どもたちは、
            「ピーター・パン・シンドローム」と揶揄された私たち大人の
            映し鏡なのじゃなかったのか…?
            いや、原紙が原紙なので、かなり安っぽい劣化したコピーなのだと。
            カエルの子は、カエルというじゃないかと。

            加えて、私が最も気になるのは、かつて、
            「ピーター・パン・シンドローム」と前の世代から、厳しく揶揄された全体としての大人たちは、ときどきあまりにも独善的な判断をすることがある。
            人間の尊厳を侵犯するような、驚きあきれる制限をしようとすることがある。

            稚拙で、異端なおバカ行為する子どもたちの連鎖と登場は、
            今、社会全体に対して、物理的な現実に対して、
            私たちの心の深い部分が「善悪のけじめ」を求めて「倍返し」しているのだと思う。

             

            posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 20:35 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            ☆ 蝉
            0

              詳細は、控えさせていただくが、とある建物の比較的上層階の外階段を下っていた時のことだ。
              私は、この上層階の外階段の踊り場から眺め見る風景が、どこか懐かしく好きなのだが…。
              それで、外階段を降りることにしている。
              数階を降りたところで、雨水を誘導する溝の一カ所に蝉の死骸を見つけた。
              腹を上にして、仰向けになって死んでいる。
              まだ7月中旬なのに「少し、早いな…」と思いながら、その蝉の死骸を見た。
              「いやだな…」とも思う反面、蝉を一つのオブジェとして見るなら、
              そこには、
              何かしら、…記号のように意味があるように思えた。
              「記号」などというと秘密めいた云い方になるが、そういう意味ではなく、
              私の自身の思考の断片を象徴しているかのような感じだ。
              私の外側の物理的世界は、すべて…私が意識しようが、しまいが、私自身の内面世界を
              反映したものだという思いでそれを見ているからだろう。

              その意味で、やはり私自身の思考の中の記号なのだろう…。

              そのことを、先ほどまでしばらく考えているうちに、
              「なぜ、いまこのタイミングで、この蝉を見かけたのだろう?」という
              ことについて考えていた。
              そして、何となくだが、答えが見つかった。

              それは、1年前に遡る。

              やはり、暑い夏の盛りのことだ。集合住宅の私の自宅から、近くの大手スーパーに行ったある日のことだ。
              途中、何度か裏返った蝉の死骸を見た。

              その時、昆虫の嫌いな私は、もちろん「嫌だな…」と、今日のように思った。

              もとより、
              私の居住区には、全体として植林のよく育った並木道も多くあり、またそれぞれの集合住宅には、
              樹木の多い公園も配置されてある。
              学校もあり、そこの裏庭にも樹木が多いせいで、盛りの時期には、蝉がうるさいほどよく鳴いている。
              昆虫たちの生息という意味では、単純に条件がよく、蝉の死骸などは、あって珍しいことではないのだが。

              で、同じ日かどうかは思い出せないが、
              私の居住している建屋の階段の踊り場にも、やはり蝉の死骸が腹を上に向けて死んでいた。
              そんな時は、やや遠回りをするように、それを避けて、通ったものだが。

              その蝉の死骸が、2−3日、そこにあった。
              誰も、掃除してくれてはいなかった。

              その「嫌だな…」という感情と思い、蝉に意識を向けている自分のその思いの断片が、
              今日、いま、この場で、かつての思いが再現されたのかな…と、ふと思えた。

              理屈付けと言ってしまえば、それまでだが。
              私は、そうは思っていない。見えない因果の鎖で、繋がっていると思っている。

              多くの場合、人は、その程度はあれ、さほど蝉の死骸などに、注意を払わないだろうと思う。
              だが、私は、「嫌だな…」という感情をもっているために、sensitiveに反応してしまう。
              そして、
              私の思いが、似たような形で、現実化されているのかもしれないなと。

              そんなことが、数日あったことも、やはり、いつの日かの現実化に向けて、多少の陰影を落しているのだろう。

              さらに言えば、1年前、妬けに、蝉の死骸を見たのも、おそらく、それ以前の因果の返しなのだろう。

              自分を映した合わせ鏡を覗いた時のように。

               

               

              posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 19:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              ☆考える人(ロダン作)
              0

                私は、さきほど、ふとロダン作の「考える人」の像のことを考えていた。

                「考える人」の像の画像は、以下で参照できる。
                 http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E4%BA%BA

                子どものときから、あの像の格好に疑問があったことを、
                なぜか、急に思い出したのだ。

                確かに、ジェスチャーで言えば、文字通り、あれは考える人の象徴的な格好だなと思うが…。

                あの右腕の肘を左脚の膝付近に載せている様は、一見、あの盛り上がった筋肉で、
                張り詰めた逞しい身体の男性の考える姿には、
                特に、違和感を感じることはなく受け入れてしまうのだが…。

                詳細に、見ていくと…、

                あの格好は、かなり奇妙なのだ。
                例えば、身体を左にややひねっている。
                肉体的に自然な形をとるのなら、アゴを載せている右腕の肘は、
                自分の右脚の膝上あたりに載せる方が、ずっと物理的には楽だということに気づく。

                なのに「考える人」の像の姿は、両足のカカトまで浮かせて、
                わざわざキツイ姿勢をとっている。
                あの状態で考えるということは、本来、何かモノを考える、思索に耽るとするなら、
                あまりに不自然だと言わざるを得ない。

                人にも寄るだろうが、実際にあの格好を真似てみると、かなりキツイ姿勢だと気づく。
                下手をすると、浮かせたカカトのせいで、脚が吊り気味に小刻みに震えたりする。
                そう思うと、あの世界的に有名な「考える人」の考える姿には、
                実は、人間の苦悩に対する陳腐さを戒める意味が込められているのだなということが分かる。

                つまり私たちはもっと、
                苦悩せず、自然にあるべきはずであることを唱えているのだろう…。
                と同時に、
                然るべきことに自らに制限を加え、苦痛を招き寄せながら考えているということへの
                警鐘を表した象徴なのではないかと思えてくる。

                あの像は、そうした意味をさり気なく示していることを、
                私たちの理屈を
                超えた「魂」=(潜在意識)は、直感的に感じているのではないか。
                その共鳴が、あの作品の物理的にやや不自然な格好に対して感じながらも、
                無意識には優れた彫像として評価し、作品性の評価を押し上げてきたのだろうと思う。

                この「考える人」の像に対して、私は、次のように前述した。

                  「然るべきことに自らに制限を加え、苦痛を招き寄せながら考えているという
                   ことへの警鐘を表した象徴なのではないかと思えてくる。」

                これは、
                「考える人」の像の姿が、私にとっては、どうみても制限の象徴のように思えてならない。
                なぜなら、私たちは制限のある世界に自ら軸足をおいているからだ。そして、
                それ自体は、自らの根源的な能力の現出に対しては、自己矛盾を孕んでいることに気づいていない。

                トランサーフィンのヴァジム・ゼランド氏の洞察と言葉がすごい。以下に引用しておきたい。

                  「制約や約束事で頭がいっぱいの理性は、魂を見張る看守となり、
                   魂が能力を発揮することを許さない。」
                    
                (「[願望実現の法則 リアリティ・トランサーフィン2]」
                    ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店 p210)

                ここで言う、「魂」とは、ゼランド氏は、潜在意識を象徴している言葉だ。
                私たちが、苦悶し悩み、考える姿というのは、自ら設けた「制限」という衣を、
                さらに厚着することに、他ならないことが、トランサーフィンシリーズを読むことで気づく。

                「考える人」の像は、私たちの内面の制限だらけの意識を、外に現して反映したものかもしれない。その像の表現している姿をどう評価するかは、私たち自らに任せられている。


                posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 19:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                ☆近視眼的呪縛から逃れて
                0
                  世界は、波風を立てて崩れていく…。
                  どうか心配しないで欲しい。
                  これは、私の意識世界の中だけの話だ。事前に言うが、私の頭がどうにかなったわけでもない。

                  ――☆ ☆ ☆ ――

                  正常…?それは、何に対してだね…。

                  ……。

                  私は、自問の中で、自分自身に問い返した。
                  誰でも、自分で、自分に問いかけてみることはあるだろう…。
                  しかし、正常化どうか…なんて、そんなものは、
                  意識世界の中では、本来、どうってこともないものなのだ。
                  ただ現実の物理的側面にだけ重きを置いて、その呪縛から自分を引き剥がしてみようと
                  思ったことのない方々からすれば、私の以下に述べることは、
                  ほとんどが、戯れごと以外の何ものでもない。

                  数日前、「ミッション8ミニッツ」の記事を、書かせていただいた。
                  その中で、簡単に私が触れたことがある。このストーリーは、パラレル・リアリティを
                  肯定する映画なのだ。そして、私が実感し始めているのは、こうしたパラレルな現実があることを感じつつある人々が、意識的になり、目覚めつつあるということなのだ。

                  2−3日前にも、私は、TSUTAYAの最新ものの棚から、
                  「パラレル・プラネット」という映画を見出した。
                  当然、ワクワクした。
                  それに惹かれるように、DVDを手にし借りた。

                  正直、映画はB級だった。…面白くなかった。

                  それでも、
                  ただ、ひとつ興味深かったのは、もし間違いでなければ、
                  私のとても好きだったTV映画シリーズ「X-file」に出演し、
                  主役のモルダー(デヴィット・デュカバニー)捜査官が「肺がん男」と呼んでいた、
                  あの当時の俳優が、この映画に登場していたことだ。
                  しかも、この映画でも、彼の役回りは、なお怪しく、「X-file」の役柄をそのままに
                  引きずっていた。
                  この映画でも、彼は何かしら政府の裏組織で、世界を操る陰謀をもった人物のような、
                  そのような設定で登場していたことだ。

                  「変わらないな…」とも思った。そして、何はともあれ、
                  「あー、元気でまだ頑張ってるんだ…。」と、率直に、うれしくもあり、懐かしくもあった。

                  同じ俳優かどうか、正直、自信がないのだが、
                  少なくとも、顔が非常によく似ていた。恐らく、同じ俳優だと思う。
                  これは、かなり本筋から外れた余談だが。お許し願いたい。

                  映画の内容や俳優たちがパッとしなかったこと、ストーリーの練り方が、
                  イマイチだったことなどもあり、その「肺がん男」の存在感ばかりが気になった。
                  全く余談で申し訳ない。

                  ところで、この映画は、文字通り、パラレルリアリティを題材にしている映画だ。
                  米国映画らしい派手さにかけていたことが、B級に押しとどめてしまったのだろう。

                  主役の人物が大学の研究室で、パラレルな現実を、現実化することに成功し、結果、気づかないうちに、そのパラレルな世界の現実の倒錯に陥り混乱する話だ。
                  その中で、自分の身の回りで関わる人物たちが、状況で異なる態度を示す。現実化、非現実かがわからなくなり、それに悩まされるという話だ。
                  私のその映画に対する評価は、低いが。見る方によっては、面白いと思う人もいるはずなので、
                  一面的に、私の意見に惑わされないで欲しい。ご自身で、観て判断した方がいい。
                  私の意見は、あくまでも、私の思いの中の意見に過ぎないのだから。

                  私は、このDVDを見たときにも、やはり私の意識世界が波風を立てながら、崩れつつあるのだなと思った。

                  パラレルな現実を題材にし、肯定する映画が、ここにもあったということにだ。

                  なぜ、意識世界が波風を立てながらなのか。

                  私は、トランサーフィンやバシャールなどの言葉を通じて、あるいは100年以上も前の賢人たちの言葉を通じて、そうした世界観があることを、知って受け入れていることによる。

                  一度、この世界観を受け入れたとき、これまでの物理的現実の側面に対する信仰は、大きく変わったからだ。それが、私の意識世界が、波風を立てて崩れるという表現の根拠なのだ。

                  トランサーフィンシリーズ第4巻
                  「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)に次の記述がある。

                     「いわゆる『常識』とよばれている一枚岩を揺さぶって根底からぐらつかせ
                      なければならない。常識というのは本当はそんなに健全なものではないのだ。
                      リアリティには物理的側面と形而上学的側面という二つの面が同時に
                      存在していることを受け入れてみると、古い固定観念は崩壊するが、
                      世界の構図はどんどんはっきりとしてくる。」

                               (前出:p126より)

                  私は、神を信じるように、この言葉を信じている。ずっと若かった以前、私は、神的存在に疑念を持っていたが、いま逆に偶像的な、組織信仰的な神ではなく、宇宙創造的な神的な力を、
                  むしろ無条件に信じ始められるようになった。物理的な現実は、イリュージョンであり、私たちの意識の中だけで起きてることなのだと。

                  私の記述していることは、所詮、私だけの世迷言と思って、皆さんは、ご自身の信じるところを信じればいい。


                   

                  posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 18:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  ☆鏡の向こう側
                  0

                    私は、洗面台などにある鏡を見るのが、あまり好きではないが。
                    そんな私でも、中高生の頃には、俗に言う、色気盛りに鏡をよく覗いた。
                    今思うと、その頃の自分が恥ずかしい。
                    その反動か、いまじゃ、中年オヤジよろしく、ボサボサの髪もまるで気になることもない。
                    やや哀愁の漂う瞳の奥には、必ず、そう遠くない時期に成功者になるのだと、
                    ささやかな野心を内に秘めた顔を、ほんのチラ見するだけだ。

                    「まだ、あきらめちゃいないよ。」とばかり。

                    …それで充分。

                    自分の顔など、しげしげ見たくないのは、当然だ。
                    なぜなら、かつて遊び歩いて、毎晩、浴びるほど呑んだ酒のせいで、
                    多少、顔が紅く酒焼けして、なんとも情けない感じなのだ。

                    もはや10代の頃のように、まともに見る気などしない。

                    ところが、いま再び、私はこの「鏡の世界」に興味を持ち始めた。
                    自分の色気の燃えカスなどを確認するためなどではない。

                    私たちの内面の心を映し出す、すべてカタチに現して見せてくれる
                    物理的現実の方の鏡についてだ。

                    こちらのほうが、ギラギラした10代の頃のような自分をそのまま映し出す
                    あの鏡よりも、ずっと、ずっと、はるかに面白く、意味が深い。

                    物理的現実を映し出す、その鏡について、
                    トランサーフィンのヴァジム・ゼランド氏は、第4巻。
                    「トランサーフィン『鏡の法則』」(ヴァジム・ゼランド[著] ほおじろえいいち[監修] 須貝 正浩[訳] 徳間書店)で、次のように述べている。

                       「世界を巨大な二元鏡としてイメージできる。その一方の側には
                        物理的宇宙が広がり、他方の側には形而上学的なバリアントの空間が
                        存在する。普通の鏡の場合と異なり、物質世界は、神、そして
                        すべての生き物たちの意図や思考を――神の具現――が形(イメージ)
                        となった反映として現れる」
                                (前出:p170より)

                    と説明している。
                    そして、最も興味深いのは、この鏡の物理的現実の向こう側。
                    つまり、二元鏡の他方の側のバリアントの空間そのものを映し出している側にある。

                    ここには、何があるのか。

                    思いっきり、平たく言えば、
                    私たちの運命のすべての可能性とシナリオが、すべて、この空間に中に
                    すでに用意されてあるということだ。

                    このバリアントの空間こそは、
                    私たちのそのときどきの思考が、そこからふさわしいシナリオを、意識的にか、
                    あるいは無意識に、抜き出し、選択してくる場所だ。

                    実は、人生のすべての結果は、人が思う通りになる。
                    その結果は、
                    ここにあると思っている。

                    しかも、原因は、すべて私たちの側の思いのあり方にあるのだ。

                    このバリアントの空間で、私たちの思考が何らかの選択をし、
                    時には、その中で、あらぬ方向に展開をする場面のシフティングを繰り返しながら、
                    もう一方の側の物理的な側面を映し出す鏡に投影させながら、
                    私たちは体験しているようだ。

                    私は、私たちの願望が現実化されるその背景について、
                    極めてわかりやすい記述を、前出の著作の中から引用しておきたいと思った。

                       「目的達成に必要な条件や状況をどこから持ってこいというのか。
                        そう、あそこ――バリアントの空間――からなのだ。」
                                (前出:p171より)

                    バリアントの空間にすべてがある。
                    私たちの人生を説明する方法として、
                    そう考えても良いのでは…と、私は思っている。

                     


                     

                    posted by: fukugakuru358 | 004/物理的現実と鏡 | 18:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |